人間は本質的に善でも悪でもない存在であるならば、善や悪に見えるものはどのように生まれてくるのでしょうか。
善人や悪人という言葉がありますがそれらは一体何を意味するのでしょうか。
おそらく、どちらでもないとするのであれば、善や悪と呼んでいるものは人間の外に存在することになります。
善人に見える人の善はその人の中にあるのではなく、また悪人に見える人の悪もその人の中にあるのではないということです。
そして、善や悪というものが、別次元なのか、別の存在なのか、空気中なのか、集合無意識の中なのか、何処かに存在するということです。
もちろん、本質的に善悪はないという意見もありますが、現実的に善悪があるように見えるということから、存在するという前提で考えたいと思います。
なぜ、別に存在するものが、人の中にあるように見えるのかというと、その人の人格に見えるがごとく確固たる影響を与えているためです。
そして、その人の中には電波の受信機のようなレセプターが存在し、それを介して善や悪が介入するように思います。
そのレセプターは、自己肯定だったり自己否定だったり、安心だったり不安だったり、信頼だったり怒りだったり、チャレンジ精神だったり怖れだったり、喜びだったり悲しみだったり、賞賛する心だったり嫉妬心だったり、など様々な要因があることでしょう。
場合によっては、こうすべきといった観念の場合もあるかもしれません。
そして、こういったレセプターがある限り、どちらかのチャンネル合いやすいのではないかと思います。
また、そういった要素を強く持てば持つほど、その人の内部に善悪が存在するように見えるのではないでしょうか。
つまり、善人は善と対応するレセプターを多く持つ人、悪人は悪と対応するレセプターを多く持つ人ということになります。
しかし、ほとんどの人は、どちらかの要素しかないということはないでしょう。
そういった意味で完全な善人も完全な悪人もいない可能性があります。
誰もが善人であり、同時に悪人である可能性があります。
問題は、そうでありながらも、ほとんどの人は自分自身を善人だと思いたいことにあります。
しかし、それは自分自身の悪人になりうる要素を否定し、見ないことにしてしまいかねません。
すると、実際の自分と自己認識がずれることとなり、自己分離の原因となります。
自己分離がひどくなると、見ないことにしている要素に縛られている時は無意識になり、悪に支配されてしまう可能性もあります。
それを防ぐためには、ひとまず自分の中の善悪両方を認め、全てに光を当てることで、自己同一感を高めていくことが有効なように思います。
そういった意味で、人は善でも悪でもあるのかもしれません。
2012.11.29 12:36 谷孝祐