朝一番でイタリアを代表する美術館の一つである、ウッフィツィ美術館へ行きました。
混雑する時は、入場に3~4時間待ちということもあるようですが、ほとんど人がいない状態で鑑賞することができました。
一番の見所であるボッティチェリもほぼ貸し切り状態で、その素晴らしさが染み入るようでした。
ここまで多くの宗教画を見たのは初めてでしたが、ほとんど同じパターンに見えるけれど、やはり画家の個性が出ているのが面白かったです。
そして、時代は違えど名画中の名画には共通する何かがあることを実感しました。
それは実体感とか求心力ということもありますが、分からないくらいの微妙な歪みや不自然さを利用して、描かれていない何かも表現されていることです。
それが、見る人の心象風景を映し出してくれるのだと思います。
それにしても、日本に当てはめると鎌倉後期から室町時代にかけての作品をこれだけたくさん残してきている修復技術には感服でした。
そういった意味でも、フィレンツェは時代を超えた価値を持ち続ける街という印象がありました。
そこから、ある意味同じようであり、対局でもある、ヴェネツィアに移動しました。
古き良きものを維持しているという意味では同じなのですが、街全体がエンターテイメントのようで活気があり、現実でありながらも非現実である印象です。
その微妙なバランスが多くの人を惹きつけ、雑多なものを受け入れているように思います。
当然刺激的で、その刺激にあったのか、存在価値についての問題がまた顔を覗かせました。
自分自身の存在価値はないということが受け入れられたようで、よく考えると存在価値がない方が自由なのだと気付きました。
しかし、同時に認められないことへの悲しみも出てきました。
どうやら、それを感じないようにするために、無意識的に認められなさそうな言動を抑えていたようです。
でも、それは自分自身が自分を認めきれていないから起こることなので、感じきることで手放しました。
ある程度進むと、少し鮮明に自分というものがあらわになりました。
少し無理をしてしまったと反省し、あるがままで良いということが少し解ったように思います。
それも世界に類をみないくらい個性的な二都市のおかげかもしれません。
2012.10.21 17:06 谷孝祐