実質的初日は、、、 | 3年前のしこうの楽しみ

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ダヴィンチの最後の晩餐を見ました。
様々な逸話のあるこの作品ですが、しばらく対話していると、悲しみに満ちたものに見えてきました。
あくまで、個人的な見解ですが、正しい理解者のいないキリストの嘆きを表現しているような感じがしました。

そして、それは作者自身を投影しているように思いました。
偉大な人物であるがゆえに、正しく理解されることのない孤独を感じていたのかもしれません。
良い絵は自分自身の投影があらわれるので、これが正しいかどうかは分かりませんが、自分自身の深いレヴェルにある悲しみを刺激したようです。

その悲しみが、その場を立ち去った後、じわじわと顔をのぞかせては、戻るということを繰り返していました。
つかまえてみると、感覚的には魂レヴェルの悲しみといったところでしょうか、感情とは一切影響し合わない深いレヴェル、下丹田よりも下の部分から出てきた感じでした。
他の現象も合わせながら、紐解いていくと、どうやら自分は独りであるということが認めきれていないことが分かりました。

もちろん肉体を持った人間として独りであるということは周知の事実という感覚だったのですが、深い部分では完全につながっていると信じていたのでした。
一般的にはこれは真実なのですが、精神の鍛錬の成果からなのか、そのつながりすら危ういものになったのでしょうか。

この気づきと同時に、自己の存在に対する無用感が出てきました。
魂があるとして、それを含めて存在価値があるのかと。
自分という領域全てに存在価値がないのではないかと。

本来そんなものはあってもなくても良いのかもしれませんが、今までは何処かに存在価値を求めていたようです。
それを持ってはならない領域に入ってきたのでしょうか。
やってきたものは受け入れるしかないので、感覚的な自己対話で手放しました。
そして、存在という概念自体がとらえにくいものに変化しました。

それにしても、前回の絨毯事件といい長期海外旅行の実質的初日に決定的な事象が起こるものだと思います。
まるで、その旅行ですべきことに強制的にチューニングを合わさせられているようです。
今回は、現実的なインパクトは少ないですが、実質的なインパクトは前回以上です。

ちなみに、たまに聞かれることがあったので絨毯の件ですが、商品をいただかず全額支払って一件落着でした。
世間的には詐欺にあったわけですが、自分の器を広げるには必要な投資だったのかと思います。
おかげで裏にあるネガティブなこともとらえやすくなったので、ものごとを正しく見る力を高めるのにも貢献したようです。

来年は、こういった経験もふまえ、より効果的なシェアができればと思います。

2012.10.19 16:33 谷孝祐