取り立て屋 | 3年前のしこうの楽しみ

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あまり関わることもない話だと思いますが、取り立て屋について考えたいと思います。
その言葉のイメージから、または映画やドラマのイメージからか、多くの場合あんまり良い印象がないように思います。
現実に存在するかどうかはさて置き、その存在価値を考えることは面白いことのように思います。

なぜなら、それは発想の転換の練習になるためで、気づく力を高めるトレーニングにもなるためです。
取り立て屋に対する良くない印象は、多くの場合、取り立てられる側の見方に依存しています。
もしくは、取り立てられる側と同調する要素を持ったそちら側の人達の印象です。

逆の立場の場合、そのやり方はともかく、取り立て屋は心強い見方かもしれません。
取り立て屋を利用する側にとっては、便利屋くらいの印象の可能性もあります。

ここから発想をひろげて、たまに聞くことのある、全ては愛から生まれているという概念を前提においてみましょう。
全ては愛から生まれているのであれば、取り立て屋も愛の体現であるということになります。
これは取り立て屋自身に愛があるかどうかに関係なく、取り立て屋という存在が愛から生まれているという見方です。

なので、もちろん取り立てられる側にとってもそうなります。
どのようにとらえるかと言うと、取り立てられる側の不正を防ぐためのものと考えます。
もしくは、教育的システムととらえることもできるかもしれません。

イメージだけでいうと、とかく善良な市民が悪い取り立て屋に狙われるような構図になりますが、実際には狙われる側に何らかの理由があるはずです。
表面上善良な市民の内面に隠された不正がちょっとした隙に出てしまい、それを拡大して本人に返してくれる悪く見える取り立て屋に狙われるというのが本当の構図かもしれません。

とかく、一般的には稼ぐことの方に比重が重くおかれ、自主的に支払いができる人の方が少ないのかもしれません。
だからこそ取り立て屋のような存在や行為が必要で、だからこそこの言葉がなくならないのかもしれません。

人々が意識して流れを乱さないようになれば、こういったものは必要なくなり、人類の認識から消えていくことでしょう。
もちろん取り立て屋を否定しているわけでも肯定しているわけでもないので、誤解のないようお願いします。

2012.9.22 02:21 谷孝祐