さっきのブログ。

読み返して、ちょっと違うなって思った。
違う、というか、あれからまた少し考えてる。



想いを詰めた言葉、というのが、自分で書いておきながら、
自分でもよくわからなくなっちゃって。こらこら。



今、思うのは。
自分の伝えたい想いは、言葉に込めるんじゃなくて、
言葉っていうツールの「使い方」に込めるものなんだろうなってこと。

言葉の選び方、発し方、並べ方。
そこには、伝えたい想いを込めるだけじゃなくて、きっと表現方法が関わってくる。
自分っていう人間が表現されるんだろう。それによって伝わり方が変わる。想いの込まれ方が変わってくる。




わたしはずっと前から山田ズーニーさんの言葉に関心があった。
だけど、小論文、って言われるとちょっと違和感もあって、
表現方法というより、哲学的な視点でいつも読んでいた気がするよ。

だけど、自己表現のための言葉っていうもの、
言葉による表現をいろいろ知っていくことが、幅を広げてくれるってことを
今やっと、実感として感じられてるような。
やっと、自分の言葉を探して使っていけそうな。そんな気がしてる。



ブログではいろいろ書いてみてるけど、実際のわたしはいつも言葉足らず。
だけど、表現者でありつづけたいと思う。
 「おはようございます」は
 「おはようございます」であって、
 それ以下の心のない言葉であってはいけない。
 けれども、それ以上の「余分」な想いがはりついても、
 受け取るほうには負担である。
 心の根に、透明感をもって言葉を発したい

 「言葉に、それ以上の余分なものをこめてはいけないね」


                 『「余分」のある言葉』/山田ズーニー




びっくりした。
これだ。こういうことだ。


ずっと、「言葉」の危うさ、脆さみたいなものを感じていたわたしに、
この「余分なもの」という考えは、すごく響いてきた。

人は自分で言葉を選んで、自分の想いを伝える。
だから、言葉数は多いほうがいいし、語彙力の必要性はつくづく感じる。

でも、言葉って同時にとても曖昧で、つかみどころがなくって、
どこかすべてが嘘のように感じることもあったよ。

自分の考えてる想いと、それを表現しようとする言葉との間には、
いつもスキマがある気がしていた。
それが、もどかしかった。


でもね。
「言葉に、それ以上の余分なものをこめてはいけない」。


きっと、言葉に、自分の想いを重ねてはいけないんだ。
いけない、じゃない。たぶん、できない。

だって言葉は、自分の想いとか考えとか、伝えるためのツールでしかない、
表現の手段のひとつだよ。
言葉は言葉でしかない。それ以上でも以下でもない。


思うに、「想い」と「言葉」の間にスキマがあったんじゃないんだろう。
わたしはこの決して重ならない二つを、必死で重ねようとしていたんだろうな。
「言葉」の中に、想いを詰め込んでしまっていた。

伝えたいことは、言葉に乗せて伝えるだけで、
想いを詰めた言葉を伝えるんじゃない。言葉で伝えるんだ。



うーん。でも考えてみれば、きっと単純に、わたしの表現力がないだけ。
しかも他の表現方法も探そうとしないで
ただただ、言葉への不信感ばかり募らせて、
全部、言葉っていうものの曖昧さのせいにしてた気がするよ。


わたしは、言葉っていうものに期待しすぎていたのかもしれない。

言葉は、人にとって一番操りやすくて、伝わりやすい手段。
でも、操りやすいからこそ、乱暴に軽率に扱われてしまいがち。
そして、伝わりやすいからこそ、
たった一言だけで、十も伝えたつもりになってしまったりして。



わたしは、できるだけ人の言葉ひとつひとつに耳を傾けて、
その人が言いたいことはなんだろうって、
言葉の奥にある気持ちを理解したい、っていつも思っていた。

きっとそれは間違ったことじゃない。
正しい、正しくない、で物事を判断したくはないけどね。
でも、こういう態度は持ち続けていたいと思ってる。


だけどわたしは、これを周りの人にも求めてしまっていたんだ。
わたしが「1」言えば、相手は「10」わかってくれるんだって。
一言言って、はい、あとはあなたが理解して。って。
その言葉に、自分の想いを重ねたつもりになってたんだ。

ああ。なんて乱暴に言葉を使っていたんだろ。
こんなツールの使い方じゃ、伝わるものも伝わらない。



言葉っていうツールを選んだのはわたし。
選んだわたしが、ちゃんと使ってこそ、生きる。
生きたときに、伝えたいことが伝わる。




そう思うと、作家とか、ものを書く人ってすごいね。
言葉に余分な感情を持たせていない。
言葉を使って、感情を表現している。

これって、あたりまえのことなのかもしれないね。
でもわたしは、これからなんだな。

ま。しょうがないか。
そんな自分も受け入れましょ。



明日も晴れるって。
わくわくしながら、生きていたいもんね。

椎名林檎つながりで。宇多田ヒカルmeetsです。
もともとはカーペンターズの曲。





一番大切なものを見つけたんだ。

あなたがいるから、わたしは今日を生きていける。
どんなことも、あなたがいれば乗り越えていけるよ。
今日は友達と夜ご飯を食べ、そのままカラオケへGO。
突然の呼び出しにも関わらず来てくれてありがとう。
あなたが暇してて良かった(笑



椎名林檎が好きな友達。
前に「スマイル」の主題歌になってた曲を歌ってくれました。
気に入ったので載せよーう

ありあまる富



もしも君が彼らの言葉に嘆いたとして
それはつまらないことだよ
なみだ流すまでもない筈
何故ならいつも言葉は嘘を孕んでいる

もしも彼らが君の何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は生命に従って付いている

ほらね君には富が溢れている





きっと誰もが、誰にも絶対に奪われることのないものを持ってる。
傷つけられることも、否定されることもない。
いつまでもいつまでも、その人だけのもの。
それはたぶん個性みたいなもの。

こう言うと、すごく素敵なもののように感じるけど、
逆の見方をすれば、きっと一生付いてくる、離れられないものっていうこと。
人は自分から離れていっても、自分は自分から逃げられないから、
絶対に向き合うべきものなはずだよ。

だけどそれを、大切に出来る人と、そうじゃない人がいる。
わたしはどっち?

できないなら、何度も何度も、自分に言い聞かせるよ、
わたしはわたしにしかなれないんだって。
前にも書いたような気がするけど、何度だって言うよ。



それにしても、言葉って、本当にむつかしい。
全部全部、嘘のようにも感じるときがあるし、
だけど言葉じゃないと「本当」を伝えられなかったりもするよね。

 「誰も認めてくれなくったっていいの。
  「わたしっていいなぁ!」って、
  ときどきにっこりして、
  自分を抱きしめるの。
  そうすれば、恋は豊よ。
  そういう自分を、
  ある人のために、
  無条件に、惜しげもなく投げ出すのよ。」

                        『愛する言葉』/岡本敏子



今日は、ギャラリー間の隈研吾展、根津美術館(隈研吾設計)、
そして岡本太郎美術館に行ってきました。



わたしにとって隈さんは、「負ける建築」の印象がとても強い。
決して建築が主役ではない。
有機的建築、それも生物観によるものを隈さんは求めているといいます。
それは結局のところ、生物と環境との関係性であって、そこでは建築が媒体となって
建築は自律せず、関係性をつくりだすものとしてしか存在しようがないのだと。

中でも印象的だったのは、この環境の中で、生かされたり殺されたりしているのだという
「謙虚な生命観の時代」という言葉でした。

***
わたしは、どうしても建築には強制力を感じずにはいられない。
場所を規定し、制限し、壁や床や天井あらゆる条件を以て閉じ込める。

もちろんこれが建築だし、それによって豊かな空間が生まれるし、世界に秩序が与えられた。
何よりも、建築は人間が身を守る最初の手段だと思う。
それに、場ができることによって人が集まって社会が生まれ得たんだと思う。
人のいるところには、絶対に建築が生まれる。そう思う。

だけど、どうしても、どうしてだか、建築の強制力を批判的な視点で捉えてしまって、
それをなくすことができない。
わたしにとって、建築は何かを果たすための答えにも、手段にも、ならない。今は。

それはたぶん、建築が私の中できっともう、生活するうえでの前提として
存在してしまっているからかもしれないって今は考えてる。
もちろん建築は必要。なくなったらたぶん人間たちはまた建築をつくるんだと思う。
だけど今生きてるわたしにとって、建築はもうあることが当たり前で、
問題にするとしたら、あるorない、というところになってる。
たとえどんな空間が与えられようと関係ない、とまでは言わない、もちろん。
だけど、こころのどこかで、そういう想いがあることも確かです。
だから、家を建てる意味は何か、どうして建築家が家を設計するのかというところに思考がいって、
その先にある「どんな空間か」に興味を持ちきれていない。

だから、今は、根源的なところをもっと考えることに集中しよう。
それが必要だしね。

建築は、社会性をなくさずにはいられないのか?
今の時代、もう、社会性って必ずしも必要じゃないんじゃかな。

とりあえず今は、ここで止めておこう。


*根津美術館

屋根がとにかく印象的。ホールロビーから見る庭園がとてもきれい。
だけどその庭園が人工的なものにしか感じられなくて、残念だった。
内部空間は大きなホールを中心に展示室が1階と2階に存在。
個人的には第3展示室が好き。角にひっそりと存在するあの小さな小さな空間。

2階に3つ並んだ展示室も良かった。少しずつ、空間の質が違って楽しめました。
美術館ってあんなに暗い場所だったかな。あれくらいの暗さもいいな。



*岡本太郎記念館

あそこはもう、パラダイスだね。太郎&敏子パラダイス。
もちろん生活してたときはああじゃなかったんだろうけど
あの家には二人の生命力が満ち溢れてたように思いました。

なにより、二人の言葉がすてき。
わたしもいつか大好きな人と向き合うことが出来たら、ああゆう二人になりたい。
今日の冒頭の言葉は、敏子さんの言葉をひとつ選んでみました。
ほんとうに、太郎さんへの愛に溢れた人です。
そして太郎さんに心から愛されて、それをきちんと受け止めていた人。

今日は部屋の模様替えをしました。
わたしは、何かの区切りがあるごとにこうして模様替えをします。
今回は、とりあえず論が終わったから。

やっぱり部屋の雰囲気が変わると、気分も違うね。しゃんとする。
今回は机を窓に向けてみましたー。見晴らしはそんなに良いとは言えませんが、とっても明るい。
昼間はぽかぽか。
またすぐにぐちゃぐちゃしてしまいそうですが、がんばって維持しよう。


そして今日は、洋服も2点ほど購入。へへ。
でも安いやつだよ。あんまりお金がないから贅沢はできません。
で、買った勢いで、着古した服を少し捨てようと思います。
ちょっとね、ぼろぼろしてきちゃったから。



今日は自分の身の周り、心機一転。
捨てられるものはもっと捨てたい。必要になったらまた手に入れればいい。
きっと、絶対に捨てられないものってそんなにないんだろうな。
もう二度と、絶対に手に入れられないものだけだよ。
あと、これからのわたしを見守ってくれるもの、
そして。わたしが、いつか出逢いたい、自分の子供に見せてあげたいもの・渡したいものだけ。


今のわたし、絶対捨てられないものは何かな。
自分の日記帳・手帳。
たくさんの写真たちと、本。CD。
母親譲りの編み物セット。
子供のころからそばにいる小さなクマのぬいぐるみ。
あと、旅先で買うポストカード。

くらいかな。それ以外も個々に見れば想い入れはたくさんあるけど
絶対に捨てられないものじゃない。必要最低限あればいい。

なんだー。捨てられるものってもっとあるじゃーん。

もっともっと大きな区切りの時期が来たら、思い切ってみようかな。
今はまだ、捨てられないや。やるとしてもすこしずつ。
でもいつか捨てるときがくるもの、この部屋にはたくさんあるね。

そのときが来るまで大切に、大切にしよ。

YUKI 『歓びの種』





わたしを元気にしてくれる曲。
こころがのびのびする曲。
きっと、あなたのことも元気にしてくれる。

歓びの種を、暖かい大地で育てましょ。

「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。
 その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとっては別にどうでもええことみたい。
 ただの燃料やねん」

「もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、
 私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。」

「いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、
 こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。
 もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」

                            『アフターダーク』/村上春樹


何かから逃げ、コオロギという偽名を名乗る女性の言葉。
この小説で伝わってきたのは、この言葉に要約されてると思う。

人が、自分の都合のいいように記憶を変えてしまうことがあったり、
嫌なことはすぐ忘れようとしたり、過去の記憶はやたら輝いて感じたり、
そういうのはきっと、これから生きていくために備わった、
人間の知恵みたいなものなのかもしれないな。


***


「何かをうまくやることと、何かを本当にクリエイトすることの間には、
 大きな違いがあるんだ」

―何かを本当にクリエイトするって、具体的にどういうことなの?

「音楽を深く心に届かせることによって、こちらの身体も物理的にいくらかすっと移動し、
 それと同時に、聞いてるほうの身体も物理的にいくらかすっと移動する。
 そういう共有的な状態を生み出すことだ。たぶん」


「法律を勉強するのは、音楽をやるほど楽しくないかもしれないけど、
 しょうがない、それが人生だ。それが大人になるということだ」


                        『アフターダーク』/村上春樹


バンドをやめ、所属している法学、法律の勉強に取り組むことを決めた高橋の言葉。
なにかひとつのことを、真面目に勉強したくなった、という。
好きなことだけじゃ生きていけない。
そして、好きなことを本当にやろうとすることはむずかしい。

どこまでできるか試すことも大切。
でも、電車を乗り換えることも大切だ。
いくらか切ない気持ちは拭い去れない。
何かをやるということ、何かをやめるということ、
何を選び、何を捨てるのかをいつも考えてないといけない。

きっと、そうやっていつも生きていないと、何もできないままなんだろうな。
今のわたし、そういう状態。
ほしいものばかりほしがってるわたしは、大人になりきれてない。
捨てることが出来ないから、何も手に入れられないんだ。

決断、決断。


「大切なのは、勇気ではなく、覚悟。」(By高橋歩)

「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。
 その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとっては別にどうでもええことみたい。
 ただの燃料やねん」

「もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、
 私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。」

「いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、
 こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。
 もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ。」

                            『アフターダーク』/村上春樹


何かから逃げ、コオロギという偽名を名乗る女性の言葉。
この小説で伝わってきたのは、この言葉に要約されてると思う。

人が、自分の都合のいいように記憶を変えてしまうことがあったり、
嫌なことはすぐ忘れようとしたり、過去の記憶はやたら輝いて感じたり、
そういうのはきっと、生きていくために備わった知恵みたいなものなのかもしれない。

記憶をたどって、思い出される心象。
…。

今となっては全部全部、いとおしい。
本当はもっともっと、思い出したいのに。
なんだかもどかしいよ。
http://www.youtube.com/watch?v=9MxmthbKZYU

もともとはエルビス・プレスリーの曲なのかな?
あまり詳しいことは知りません。
でも、いい曲。



Wise men say only fools rush in
But I can't help falling in love with you

Shall I stay, would it be a sin
If I can't help falling in love with you

Like a river flows surely to the sea
Darling so it goes some things are meant to be

Take my hand, take my whole life too
Cause I can't help falling in love with you

Cause I can't help falling in love with you


たとえ愚か者だといわれても、僕は君が好きなんだ
あらゆることがそうであるように、これもまた運命なんだ
愛しい人、僕の手を掴んでおくれ
もう僕は君を好きにならずにいられないから