『痛ぶる恋の、ようなもの』・最終回 | なにわの司法書士の徒然草

なにわの司法書士の徒然草

つれづれなるままに日暮らし
PCに向かいて
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつづれば
あやしうこそものぐるをしけれ

テレビ東京木曜24時30分のドラマ『痛ぶる恋の、ようなもの』

 

 

この作品の舞台自体が映画を自主製作するような大学だったわけだが

 

ドラマ自体も映画のような作品

 

 

思わせぶりなタイトルに、登場人物の日常の出来事をつむいでいくが

 

はっきりと心情を吐露したり、関係性を明確に台詞やナレーションで説明したり

 

そんなことは少なく、見ている人に想像させる部分が多い

 

具体的な大きな事件が起こるわけではなく、でも何かが変わっていく

 

ぼやかした輪郭の中で繰り広げられるその空気を楽しむ作品

 

映画には多いがドラマではあまり見られないこの手の作品

 

感受性が試されるようなこの手の作品が個人的には苦手ではある

 

 

主人公の望月歩自身が、小川未祐のことを「台風みたいなエイリアン」と表現しているのだから

 

こちらがその人物像を捉えきれないのも仕方のないところ

 

こういう女子がいることは知っていても理解は不可能

 

理解できないから興味がわいて離れられないという望月歩の気持ちもよくわかるし

 

振り回されても別れない自分のことを愛の深さだと思い込む錯覚

 

自分だけは特別な存在、彼女を理解できるのは自分だけだという過信

 

そうした学生の若さ、未熟さは昔も今も変わらない

 

 

小川未祐に去られた望月歩の部屋を訪ねた河村花の「今日抱いていいですか」の男っぽい言葉に

 

しっぽを振ってコンドームを買いに飛び出す望月歩

 

そのままぬるっとSEXをして、ぬるっと付き合い始める

 

でも部屋には小川未祐との思い出の品が山積みでいつまで経っても捨てられない未練の塊

 

自分の気持ちが「好き」なのかどうかもわからないまま、目の前の肉欲に流され

 

それが「好き」だと思い込もうとする若さゆえの過ち

 

でもそんな過ちの繰り返し、過ちが許される時代を「青春」と呼ぶのかもしれない

 

 

どうやらドラマが抽象的だと感想も抽象的になってしまうようだ