tamesiniaのブログ

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先祖のことや日常のことを気ままに書いています。

古代雄勝城に感じていた私の脳内モヤモヤが解消しました。雄勝城は横手盆地を流れる雄物川西岸の西馬音内にあるとされる。日本海側の由利の柵からの補給も近いですし、奈良由来の三輪神社もあるしでそうだろな~と思っていたのですが、古代城としての証拠が見つからないのだそうです。それで直線30㎞北東に離れた雄物川東岸大仙市内陸の払田の柵に移転したと言われます。ただし払田の柵は文献に出てこないが古代秋田城との関連を示す遺物は出ている。何故だろうと脳内3Dで考えてみました。当時西暦800年前後は西馬音内の雄勝城と大仙市の払田の柵は湿地帯で繋がっていた。丘に登れば西馬音内から見通せた。境界の無いお隣だった。地理的に横手盆地は平坦で雄物川は蛇行を繰り返していた。そのため流域は浦と呼ばれる地形だったのではないかと。これで脳内がスッキリしました。

 

 

武石と縁のある方と話をする機会がありました。自分と似ていると思った人は武石の分家の当主で、私の曽祖母の出た武石はもう一つの分家とわかりました。そこの当主はすでに亡くなり子も東京に出てしまったので話す機会もなくなってしまいました。 

戸籍から明治末に祖父の弟が東京の武石家の養子となっています。系図がないので墓誌から解釈します。天保(1830-1844)には当家7代目玄弘秀河の娘である違世が武石から婿を得て、後継ぎ8代目玄俊が生まれています。さらに2女は武石に嫁いだとあります。3女は分家した。8代目の子9代玄常は20歳で早世したため、次男であった曽祖父が9代目玄弘を襲名し武石分家から曽祖母を娶り現在に至っています。薄くなった齊藤の血脈を戻そうと血筋のある武石と婚姻しているかのようです。墓誌には武石本家分家の区別は刻まれていないのですが、双方の生家が近い両方の分家と通婚していたと推定しました。

このような経緯で当家齊藤の直系は7代で終わり、8代からは武石系となりました。名は齊藤でも血筋は武石となり複雑な気持ちです。武石から婿を得ていたことは、曽祖父以降、誰も知らなかった。墓面は荒れていましたし、9代目で当主が交代し伝承が途切れてしまった。

江戸時代6代目は御殿医儒者でしたので領主佐竹南家経由で自身の先祖を知った可能性はあります。7代目が玄弘秀河と侍の一族の通字秀を刻んでいます。実際は初代2代と元で大子町内大野には元の通字を持つ一族がいます。

再発見したのですが当家初代を八幡林の霊仙院に配置した山伏の頭領今宮家の知行地に仙北郡八幡林村があります。当家がある松岡村は雄勝郡平鹿郡の郡境で雄物川西岸沿いに仙北郡境界も近い。佐竹氏の国替え前は戦国武将小野寺氏と最上氏家臣楯岡氏の争いの場所でしたので郡境が不定になっていた可能性はあります...と期待したのですがコトバンクで調べましたら角館近くに八幡林村がありました。石高610石余。

当家初代が移住した松岡村間木沢について、肝煎りの問いに秋田藩の役人が除地であると答えた記録が残っています。その理由を考えていました。山伏の開墾地だからか、佐竹氏による大子町矢祭町棚倉町攻略に協力した一族への褒美か、佐竹南家菩提寺清凉寺の支院の開基だったからかと。初代元常は墓誌に賜うと書き残している。給うではない。やはり褒美かな。

画像は今宮氏の知行目録の史料からの抜粋です。

 

 

 

 

 

 

 

 

当家齊藤の墓誌には天保年間に武石から婿養子を取ったとの銘があり、さらに明治期に曾祖父が武石から妻を娶っています。従って当家8代目以降現在までの齊藤家は武石のDNAが濃厚なのです。以前、武石本家の当主とお会いした時に自分と似ているなと思った直感は案外に正しかった。

茨城県日立市十王の領主小野崎氏家臣武石氏は法鷲院大般若経寄進者として記載されています。秋田に移住していますので係累が秋田県湯沢市山田字松岡に来たのだろうと思っています。武石家には佐竹氏に付いて来たとの伝承があります。武石姓の祖は名族千葉介常胤の三郎で千葉市武石町に本拠があったとのこと。6男の東氏は京の公家と姻戚となり、高貴な方の先祖でもあるとのこと。DNAの痕跡くらいは繋がっているかしらん。

画像は十王町史通史編からの抜粋です。

なまえさあちに現牛久市、奥野村出身の一族らしい方からの投稿がありましたが残念ながら途絶えています。

 

 

先祖探しに新たな視点が見えました。茨城県大子町内大野にある遠祖の氏寺実相院の本院は茨城県日立市十王町友部にある法鷲院です。秋田県湯沢市松岡字八幡林にある霊仙院には当家初代の墓誌があります。それには□□寿王尊と読み取れる刻字があり、それまで大子町の実相院の祭神である福禄寿のことと思っていました。今回、法鷲院の所在地でもある十王のことではと考えました。平安時代に十王信仰が流行ったそうで、閻魔大王他10神の王に審判されるという。遠祖達は大子町内大野に来る前は十王に住んでいたのか。

さらに十王町史によると法鷲院大般若経に寄進した人物に十王周辺を支配した戦国武将小野崎一族に加えて家臣と見られる武石姓が3人いました。小野崎氏は佐竹氏に随行して秋田に移動していますので、その家臣の武石氏が来ても不思議ではないと思えます。松岡村の武石姓は江戸時代後期になり当家婿となっています。さらに明治になり当家曽祖父は武石家から妻を迎えています。当家男系は武石氏の血脈なのです。

画像は湯沢市絵灯篭祭りの美人画です。

 

 

遺産整理のため10年ぶりに訪れました。南家は佐竹氏が茨城から秋田に移封後、秋田県南で山形最上氏領に近い湯沢市や雄勝郡に8千石位の領地をもらい支配していました。ところが秋田市久保田にお城を構える本家の意向で5千石に、さらには湯沢市岩崎に分家の支藩ができたことで3千石まで減らされたようです。私の遠縁の先祖も最初は本家直臣の給人でしたが、その後は南家に組み入れられたようです。本家は深堀等の米が良くとれる村を領有し、分家の南家は山間部の村と悲哀ですよね。

 

私の直接の先祖は山伏で西の雄物川の対岸、出羽山地際の松岡村字間木の沢に、佐竹一門で山伏の頭領でもある今宮家より配置されたのではと。先祖の墓誌文面や寺の山号と今宮家菩提寺の類似から推定しました。寺の開基となり周辺の山林を所有していました。なぜそこなのかの古文書は見つからないのですが、前の領主、最上氏家臣の楯岡氏が本荘に転封になりそこが空いていた、あるいはこっちだと思いますが山陰で日当たりが悪い土地であったからでしょう。除地とされ開墾に精を出した。さらに南家菩提寺清凉寺の末寺になっています。寺史では僧らの働きかけとされていますが、常陸時代の主従関係ではと思っています。左側山際が侍町。陣屋がありました。

 

 

出羽山地と鳥海山。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茨城県大子町上金沢にある羽黒神社のグーグルマップです。大子町町史に引用された水戸藩開基帳と神社ブロガーさんの調査から、佐竹氏時代に玄常院という山伏寺が羽黒神社の近くにあり還俗したとあります。当家の早世した9代目は玄常と名乗っており、この還俗した山伏が秋田県湯沢市の松岡村に移住した当家初代元常であろうと考えています。なお、その山伏寺は水戸徳川時代に万学院となり元覚という僧侶がいたとあります。血脈かはわかりません。

先祖探しを始めたころネット検索で目に留まった表記です。三春町にあるバス停留所の標示板にあります。グーグルマップでは福島県田村郡三春町大字斎藤小字斎藤。館跡と三春町の考古学史料にありました。

コトバンクでは古くは田村庄で1352年の足利尊氏御教書には田村庄斎藤村の地頭職が国魂氏に与えられたとある。紀州熊野山神宮年貢帳には1561年に西藤、1586年に斎藤と記されているという。

三春町の歴史家に尋ねましたが斎藤氏は伊達氏の家臣になったとのこと。そうか残念。でも伊達氏に組するのを嫌がって、白河結城氏の影響下にある陸奥国依り上保(大子町の古名)に流転した斎藤一族はいないのかな。大子町の東隣の里美村には棚倉街道が通っていましたし。歴史ロマンになってしまいました。

 

 

細部に真実が宿るの諺を地でいくような失態です。

この資料は2年前に取得していましたが今まで見過ごしていました。

大子町史研究第十号、昭和五十七年三月三十一日発行、大子町史編さん委員会編集の中に

「大子村御陣屋と大子郷校文武館」の論文があり、それには文武館の開校(安政3年、1856年)に

あたって献金、献学田した人物として内大野村居住の郷医立達・元達の名があり、さらに一覧表には斎藤立元、

斎藤元達、斎藤立達、斎藤巳之松とあり祖父、父、子、曾孫の関係のようです。

当家初代は元常、2代は元恒と元が諱(いみな)、通字であり内大野村居住の元達やその父である立元と共通の先祖を持つのではと確信するに至った次第です。

御子孫が存命であれば語り合いたいものです。