武石と縁のある方と話をする機会がありました。自分と似ていると思った人は武石の分家の当主で、私の曽祖母の出た武石はもう一つの分家とわかりました。そこの当主はすでに亡くなり子も東京に出てしまったので話す機会もなくなってしまいました。
戸籍から明治末に祖父の弟が東京の武石家の養子となっています。系図がないので墓誌から解釈します。天保(1830-1844)には当家7代目玄弘秀河の娘である違世が武石から婿を得て、後継ぎ8代目玄俊が生まれています。さらに2女は武石に嫁いだとあります。3女は分家した。8代目の子9代玄常は20歳で早世したため、次男であった曽祖父が9代目玄弘を襲名し武石分家から曽祖母を娶り現在に至っています。薄くなった齊藤の血脈を戻そうと血筋のある武石と婚姻しているかのようです。墓誌には武石本家分家の区別は刻まれていないのですが、双方の生家が近い両方の分家と通婚していたと推定しました。
このような経緯で当家齊藤の直系は7代で終わり、8代からは武石系となりました。名は齊藤でも血筋は武石となり複雑な気持ちです。武石から婿を得ていたことは、曽祖父以降、誰も知らなかった。墓面は荒れていましたし、9代目で当主が交代し伝承が途切れてしまった。
江戸時代6代目は御殿医儒者でしたので領主佐竹南家経由で自身の先祖を知った可能性はあります。7代目が玄弘秀河と侍の一族の通字秀を刻んでいます。実際は初代2代と元で大子町内大野には元の通字を持つ一族がいます。
再発見したのですが当家初代を八幡林の霊仙院に配置した山伏の頭領今宮家の知行地に仙北郡八幡林村があります。当家がある松岡村は雄勝郡平鹿郡の郡境で雄物川西岸沿いに仙北郡境界も近い。佐竹氏の国替え前は戦国武将小野寺氏と最上氏家臣楯岡氏の争いの場所でしたので郡境が不定になっていた可能性はあります...と期待したのですがコトバンクで調べましたら角館近くに八幡林村がありました。石高610石余。
当家初代が移住した松岡村間木沢について、肝煎りの問いに秋田藩の役人が除地であると答えた記録が残っています。その理由を考えていました。山伏の開墾地だからか、佐竹氏による大子町矢祭町棚倉町攻略に協力した一族への褒美か、佐竹南家菩提寺清凉寺の支院の開基だったからかと。初代元常は墓誌に賜うと書き残している。給うではない。やはり褒美かな。
画像は今宮氏の知行目録の史料からの抜粋です。












