墓誌の検証初代墓誌が建立されたのは寛延庚午1750年5月11日である。誰が墓誌を書いたのかは刻まれていないが、年代的に当家6代斎藤玄弘であろうと推察できる。実名は希淵、生年は1736年頃で医者をしていた。この6代目は弟子の須田春育翁(1763年生)が書いた見聞百物語に登場している。見聞百物語は湯沢市の文化財となっている資料である。さらに6代目は京の武田梅竜(1716- 1766年)に師事し儒学を習っている。漢文の素養はあった。
先祖の墓誌 その6墓誌の終わりに□娶佐々木氏有女子二人男元恒と彫られています。佐々木氏出身の妻との間に女子2人と男子元恒を得たと解釈しました。元恒の読みはもとつね、げんこうで後の玄弘の世襲名に繋がったと推理しました。山田村の歴史略年表では深堀に先祖が佐竹氏と共に移住した佐々木元益という医者がいたと記載されています。間木の沢の斎藤家とは代々の交流がありましたし、元の通字、出身地が同じとすれば元恒は当家2代目であろうと思います。
先祖の墓誌 その5初代元常の没年は墓誌の序文が欠けているので、残字体と3年亥7月の字句から推定して慶安、寛文を推理しました。100年忌供養とすると没年は1650年で慶安3年となります。若い時に移住してきた。
先祖の墓誌 その4初代元常の戒名□□實正や信仰の対象と思われる□□寿王尊の刻字があること、霊仙院の旧い山号が万松山であり、佐竹氏一族で山伏を支配した今宮家の菩提寺の山号は万歳山松庵寺で似ていることから、初代元常が戒名を名乗り信仰した寺は、佐竹氏の領地であった現在の大子町内大野にある真言宗實相院であり福禄寿も祭っている神仏習合の寺だったと推察しました。
先祖の墓誌 その3來世以康篤業と刻まれています。読みは来世の安らぎを願ったものでしょうが、墓石にある篤の字は異字体、簡略字体で一見にはわからないようにしている。おそらくは齊藤一族に大子町内大野にあった竹ノ内の土地をあてがった佐竹氏16代義篤公(1507-1545)への報恩ではと推察します。
先祖の墓誌 その2字元常姓齊藤氏洞揚雄參賜松岡村と刻まれています。読みは齊藤元常は洞を差し上げ雄に参り松岡村を賜ると。洞とは葛洞村で現在の茨城県久慈郡大子町大字冥加に中世の佐竹氏時代に存在していました。雄とは現在の秋田県雄勝郡のこと、松岡村は同郡湯沢市山田字松岡にあります。移住して来たんです。
検索に上がりました 前スレの対策がうまくいったようです。3,4時間で上がりました。それと3か所のブログにリンクを貼りHPにアクセスして、いわゆる自演です、エヘヘ、いかにも人気のあるHPだとグーグルに認識してもらいました、ウフフ。
ヤフー終わるんですね 令和2日、ちゃんと変換されました。連休中、ブログの移転先を探していました。FC2、アメブロ、ビッグローブとしっくりきません。小生のように先祖、PC音楽をごちゃまぜに書いても許してくれるサイトはあるのかと愚痴になります。さらに移転したホームページが検索に載らないのでグーグルコンソールを見ましたら新しくなっていて再度HP情報を入力しました。しかし所有権が確認できないと戻ってくるので、指定のHTMLソースをヘッダーに貼り付けてアップロードしましたが同様です。仕方がないのでBingにグーグルアカウントを共有してもらい認証を試みました。サーバーにファイルが認識されないとの応答です。しかし、HPの頭にはアドレスバーが貼り付いていたのでこれで良いのかと検索エンジンを待つことにしました。