tamesiniaのブログ

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先祖のことや日常のことを気ままに書いています。

遺産整理のため10年ぶりに訪れました。南家は佐竹氏が茨城から秋田に移封後、秋田県南で山形最上氏領に近い湯沢市や雄勝郡に8千石位の領地をもらい支配していました。ところが秋田市久保田にお城を構える本家の意向で5千石に、さらには湯沢市岩崎に分家の支藩ができたことで3千石まで減らされたようです。私の遠縁の先祖も最初は本家直臣の給人でしたが、その後は南家に組み入れられたようです。本家は深堀等の米が良くとれる村を領有し、分家の南家は山間部の村と悲哀ですよね。

 

私の直接の先祖は山伏で西の雄物川の対岸、出羽山地際の松岡村字間木の沢に、佐竹一門で山伏の頭領でもある今宮家より配置されたのではと。先祖の墓誌文面や寺の山号と今宮家菩提寺の類似から推定しました。寺の開基となり周辺の山林を所有していました。なぜそこなのかの古文書は見つからないのですが、前の領主、最上氏家臣の楯岡氏が本荘に転封になりそこが空いていた、あるいはこっちだと思いますが山陰で日当たりが悪い土地であったからでしょう。除地とされ開墾に精を出した。さらに南家菩提寺清凉寺の末寺になっています。寺史では僧らの働きかけとされていますが、常陸時代の主従関係ではと思っています。左側山際が侍町。陣屋がありました。

 

 

出羽山地と鳥海山。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茨城県大子町上金沢にある羽黒神社のグーグルマップです。大子町町史に引用された水戸藩開基帳と神社ブロガーさんの調査から、佐竹氏時代に玄常院という山伏寺が羽黒神社の近くにあり還俗したとあります。当家の早世した9代目は玄常と名乗っており、この還俗した山伏が秋田県湯沢市の松岡村に移住した当家初代元常であろうと考えています。なお、その山伏寺は水戸徳川時代に万学院となり元覚という僧侶がいたとあります。血脈かはわかりません。

先祖探しを始めたころネット検索で目に留まった表記です。三春町にあるバス停留所の標示板にあります。グーグルマップでは福島県田村郡三春町大字斎藤小字斎藤。館跡と三春町の考古学史料にありました。

コトバンクでは古くは田村庄で1352年の足利尊氏御教書には田村庄斎藤村の地頭職が国魂氏に与えられたとある。紀州熊野山神宮年貢帳には1561年に西藤、1586年に斎藤と記されているという。

三春町の歴史家に尋ねましたが斎藤氏は伊達氏の家臣になったとのこと。そうか残念。でも伊達氏に組するのを嫌がって、白河結城氏の影響下にある陸奥国依り上保(大子町の古名)に流転した斎藤一族はいないのかな。大子町の東隣の里美村には棚倉街道が通っていましたし。歴史ロマンになってしまいました。

 

 

細部に真実が宿るの諺を地でいくような失態です。

この資料は2年前に取得していましたが今まで見過ごしていました。

大子町史研究第十号、昭和五十七年三月三十一日発行、大子町史編さん委員会編集の中に

「大子村御陣屋と大子郷校文武館」の論文があり、それには文武館の開校(安政3年、1856年)に

あたって献金、献学田した人物として内大野村居住の郷医立達・元達の名があり、さらに一覧表には斎藤立元、

斎藤元達、斎藤立達、斎藤巳之松とあり祖父、父、子、曾孫の関係のようです。

当家初代は元常、2代は元恒と元が諱(いみな)、通字であり内大野村居住の元達やその父である立元と共通の先祖を持つのではと確信するに至った次第です。

御子孫が存命であれば語り合いたいものです。

 

 

 

 


墓誌から初代の出身地は茨城県大子町にあった葛洞村とわかる。氏寺は實相院で福禄寿や八溝山を信仰していた。残念ながら一族の系図は伝わっていない。しかしヒントはある。当家7代目の墓誌には玄弘秀河、その子の玄俊の名が刻まれている。建立は安政6年(1859)である。

大子町のホームページ池田故城の項には秋田に移住した齋藤河内秀道と義篤公から土地をもらった祖父齋藤藤兵衛秀俊、祖父の子の齋藤平次左衛門秀治の名がある。秀道は1595年に福島県塙町伊香に40石、秀俊は1536年に大子町池田横嶺と竹ノ内、秀治は1574年に福島県棚倉町入野之内に2貫文をもらっている。

名の類似から一族としての繋がりはあると推察しました。さらに大子町史には水戸藩開基帳が引用されており、大子町上金沢には1577年建立の山伏寺玄常院があり還俗したと記載されています。当家9代目は玄常と名乗っていました。そこには福禄寿を祭る羽黒神社もあり、先祖はやはり山伏修験だった。

  

 

 秋田県曹洞宗寺伝に霊仙院が開かれたのは元和年間(1615-1624、江戸時代前期)で湯沢市清涼寺八世とある。そして開基は斎藤玄弘と記載されている。清涼寺とは佐竹南家の菩提寺で曹洞宗でもある。茨城から移ってきた。当家は叔父の代まで霊仙院の開基家として仏具等を寄進していた。

しかし、先代の御住職は室町期以前から(寺の裏山にある)八幡林館城に拠っていた千葉氏を開基とする。斎藤玄弘の関りは定かでないという。千葉氏は鎌倉時代から雄勝郡や平鹿郡南部を領有してきた戦国大名小野寺氏に属する国人である。千葉氏は霊仙院を菩提寺にしていたと記録にある。千葉氏一族の松岡氏や小野寺氏は豊臣期に山形県境から侵攻してきた最上氏家臣楯岡氏に敗れ、湯沢市一帯は楯岡氏の領有となる。松岡村は太閤秀吉の蔵入り地と記録にある。徳川の時代となり楯岡氏は佐竹氏と入れ替わりに由利郡赤尾津に転封する。楯岡氏は最上氏改易まで本荘城主となる。

1602年に佐竹氏が茨城から秋田に国替えした数年後に佐竹南家が湯沢雄勝を支配する。佐竹南家が配置される前、山伏の頭領である今宮氏は、常州時代の佐竹当主の庶長子の家系であったが、角館に左遷されるまで隣接した平鹿郡増田に2年間在所している。今宮氏が配下の山伏を各所に配置したことが佐竹本家に咎められたらしい。古来からのしきたりに従ったまでと反論していた。

斎藤玄弘は佐竹南家の清涼寺に八幡林の杉材を寄進したと伝わる。庇護者、宗旨を替えたようだ。佐竹南家時代に松岡村の肝煎になった千葉家との交流は無い。松岡氏は佐竹秋田藩の角間川給人になった。当家には曾祖父以降最近まで開基の出身地由緒は伝わっていなかったが、江戸期には伝承されていたようで後述する。霊仙院での齊藤家の墓所は斜面の中段にある。本堂の側ではない。御本尊の裏手は小高くなっており代々の僧侶の墓とF家の墓域である。

画像は先祖が住んでいた間木の沢集落の遠望である。左手東方向は湯沢市に通じる道、右手西方向は霊仙院のある八幡林集落である。道を挟んで反対の北方向には松岡村の中心となる集落や天台宗の白山山岳寺院跡がある。

 

 

 

 

初代墓誌が建立されたのは寛延庚午1750年5月11日である。誰が墓誌を書いたのかは刻まれていないが、年代的に当家6代斎藤玄弘であろうと推察できる。実名は希淵、生年は1736年頃で医者をしていた。この6代目は弟子の須田春育翁(1763年生)が書いた見聞百物語に登場している。見聞百物語は湯沢市の文化財となっている資料である。さらに6代目は京の武田梅竜(1716- 1766年)に師事し儒学を習っている。漢文の素養はあった。

  

遠近と読める刻字は茨城県大子町にある八溝山の八溝嶺神社に近い鳥居、麓にある遠い鳥居のことを表していると推察しました。

墓誌の終わりに□娶佐々木氏有女子二人男元恒と彫られています。佐々木氏出身の妻との間に女子2人と男子元恒を得たと解釈しました。元恒の読みはもとつね、げんこうで後の玄弘の世襲名に繋がったと推理しました。山田村の歴史略年表では深堀に先祖が佐竹氏と共に移住した佐々木元益という医者がいたと記載されています。間木の沢の斎藤家とは代々の交流がありましたし、元の通字、出身地が同じとすれば元恒は当家2代目であろうと思います。