1970年頃、ソウル青坡洞にある前本部教会に真の父母様(文鮮明先生、韓鶴子女史ご夫妻)をお訪ねしたときのことです。
 父母様がいらっしゃる2階に上がると、すでに先客がいました。それは1人の日本人姉妹(女性教会員)で、ちょうど真のお父様からお叱りを受けている最中でした。聞くともなしに聞いていると、彼女は、どういう事情があったのか、突然父母様をお訪ねしたらしく、そのことをお父様はかなり厳しく叱っておられたのです。「何事にも秩序があるんだよ。原理原則を踏まなければならない。分かったか!」と。
 その姉妹は泣きながら「分かりました」と申し上げました。その言葉をお聞きになったお父様は、それまでの険しい表情と打って変わって満面の笑みとなられ、とろけるような愛の眼差しで、「気をつけて帰るんだよ」とおっしゃったのです。
 すると、それまで側で黙って聞いておられた真のお母様が突然立ち上がられ、「ちょっと待って」とおっしゃって、急いで1階に降りて行かれました。すぐに戻ってこられたお母様は、手に指輪を持っておられました。確か瑪瑙(めのう)のような赤っぽい宝石が付いていたと記憶していますが、その指輪を彼女の指にはめてくださったのです。まるで、父親に叱られた娘を慰めるお母さんのようでした。
 その後、お母様は、日本に帰るその姉妹を、1階の窓から手を振りながら見送られました。涙を流しておられました。そのお姿の中に私は、いつまた会えるか分からない、ひょっとしたら2度と会えないかもしれないわが子を見送る切ない母の愛を感じたのです。そこには、子供の出来がいいとか悪いとかは全く関係がない、何の分け隔てもない、そして絶対に変わらない無償の愛がありました。
 それから時代は下りますが、私自身も、お母様が、与えたい情があまりにも強すぎるがゆえに、考えるより先に情的に感じて、すべての事情を超えて与え尽くされる方であることを実感した経験があります。
 ニューヨークでのことですが、真の父母様のもとに伺ったとき、お母様が私に「あなたの顔を見ると、無性に何かをあげたくなる」とおっしゃり、特に何のためにということもなく、2000ドルを下さったのです。実は、私はその時、あることでお金が必要で、頂いたお金でそれを解決することができたのです。本当に不思議でした。
 1992年4月10日、お母様は韓国・ソウルで統一運動の世界平和女性連合の創設大会をなさり、その勝利圏を日本に相続させるために、日本の7カ所で巡回講演をなさいました。その皮切りが東京ドームの5万人大会(9月24日)でした。
 日本巡回の2週間ほど前、漢南国際研修院で父母様との少人数の食事の場に同席させていただいた時のことです。お父様が突然、「オンマ(おかあさん)、今度の講演は日本語でやるんだね」とおっしゃったのです。その時のお母様の驚かれた表情を、私は忘れることができません。それでも、お母様は「できません」とはおっしゃいませんでした。少しの可能性も見えないままでも、「はい」と従順に従われたのです。
 それからお母様は2週間、猛訓練をなさいました。末永喜久子さん(777双の祝福結婚家庭)の助けを受け、日本語の文章にハングルでルビをつけて練習なさったのです。そんなお母様を心配して、朴普熙先生(36双)が「何かあったら代わります」と申し上げたのですが、お母様の決意は揺るぎませんでした。そして、5万人の日本人の前で、堂々と日本語でメッセージを語られたのです。
 あのお母様のメッセージで、どれだけの日本人女性が勇気を得たことでしょうか。これを契機に、お母様を中心とする摂理が展開されていくことになったのです。
 お母様の従順さは、ただ「はい」と言って従うだけのものではありません。お父様のおっしゃったことは何としても成し遂げる、実現するまでやり通すという、固い決意に裏打ちされた従順さです。言葉だけではなく、実体で示されるお母様でいらっしゃるのです。
 お父様が、お母様に感謝していることとして、「霊的に鋭い」「み旨に対して絶対従順」「私心がなく限りなく与える」の3点を挙げられたことがありますが、お母様は正にそのとおりのお方です。

 

「真のお母様、感謝します」より
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 夫と私は1980年に渡韓し、真の父母様(文鮮明先生、韓鶴子女史ご夫妻)の公邸で生活させていただきました。父母様は、狭い家の中でも「オンマは?」「アボヂは?」とお互いに捜し合っていらっしゃいました。“喧嘩をしない”という次元ではなく、いつも一心一体でいらっしゃったのです。

 真のお母様は、家の中でも決して大きな声は出されず、低く落ち着いた声でゆっくりと話されます。あるとき、お母様がお出掛けの間に、真のお父様が京畿道利川に行かれたことがありました。戻られたお母様が私に「アボヂは?」とお聞きになったので、「利川に行かれました」とお答えすると、日頃静かなお母様がばたばたとスリッパの音をさせて2階に上がられたのです。

 しばらくして下りてこられたお母様は、「이사람!(この人は!)」と言われて、私のおしりをぽんと叩たたかれました。私は「이천(イーチョン=利川)」と言ったつもりだったのですが、お母様には「이층(イーチュン=2階)」と聞こえたのです。

 そのときお母様は私を、「韓国に来て何カ月経たったの? まだ利川と二階の発音もできないの」とお叱しかりになりながらも、おもしろそうに「2階に上がってみなさい」とおっしゃいました。

 不思議に思って上がってみると、夫が大の字でいびきをかいて寝ていたのです。当時、父母様が帰国されると、私たち夫婦の部屋はスタッフの部屋になり、夫は先輩の先生方と一緒に2階で休んでいました。その先生方がお父様と一緒にお出掛けになったので、1人になった夫は久しぶりにゆっくりと寝てしまったのです。その姿をお母様に見られてしまったのでした。お母様はいたずらっぽく笑いながら、「見た? 私も見たわよ」とおっしゃいました。

 お母様は、権威があって近寄り難く感じる一面もお持ちですが、ユーモアを解されるお方です。ジョークを言って、皆を笑わせてくださることもあるのです。

 

 1983年12月、興進様がアメリカで交通事故に遭われました。この知らせは、韓国8カ都市勝共大会で光州におられた父母様のもとにも届けられました。光州大会の後、お父様は皆がいる前でお母様に、「オンマ、絶対に悲しみの涙を流してはいけない。泣くんじゃないよ。自分の部屋に入ってはいけない。みんなと、ここにいるんだよ」と言われ、お母様はそのとおりにされました。

 その後、お父様は大会の報告を受けたり、み言を語ったりされました。お父様は大会の勝利に大満足され、満面の笑みで勝利を祝われました。そして初めてぽつりと、「興進君はどうなの?」とお尋ねになったのです。報告を聞かれると、お母様の方をご覧になり、「オンマ、偉いね、泣かないで」と言われました。

 父母様がアメリカに戻られる日、泣かないでお見送りしようとみんなで決めました。お母様は玄関先で、「いちばん悲しいときは笑うのよ」と言われ、にっこり笑って出発されました。その後、残った私たちは抱き合って泣きました。

 父母様の行かれる道がどれほど厳しく、天情に徹する道であるかを垣間見た出来事でした。

 

「真のお母様、感謝します」より
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 1967年6月、真の父母様(文鮮明先生、韓鶴子女史ご夫妻)が3人のお子様を伴って来日されました。真のお母様にとっては初めてのご来日でした。
 歓迎会で挨拶に立たれた真のお母様は、「胸がドキドキして鳩のようです」とおっしゃいました。ちょうど、おなかに恩進様がいらっしゃったと思うのですが、本当にお優しく、しぐさの一つ一つも美しく、おしとやかでした。私は、「こういうお姿が真の女性なんだ」と感動しました。
 ご滞在中は目黒に準備した小さな2階家で宿泊され、私はその期間、ご家庭にお仕えすることになりました。真のお父様が会議を終えて戻ってこられると、お母様が階段を下りてこられます。決してダダダッと駆け下りるのではなく、音もなく静かに下りてこられるのです。階段の途中から首をかしげてお父様をご覧になり、そんなお母様をお父様も見上げておられる──。まるで映画のように美しい光景でした。
 当時、5歳に満たなかった孝進様は、元気に走ってきて、お父様の首にバーンと飛びつきます。そしてそのまま10分も20分もずっと首にしがみついていらっしゃるのです。いつ降りなさいと言われるかとびくびくすることもなく、「いつまでもそうしていていいよ」という世界でした。
 あるとき、孝進様がナイフをいじっていて指を切ってしまわれたことがありました。血がバーッと出て、孝進様は大声で泣かれました。お母様がその声を聞いて2階から下りてこられ、「孝進、そんなに泣かないのよ」と静かに諭されました。落ち着いたお母様のご様子に、慌てていた私たちもほっと安心したのでした。
 初めて間近に拝見した真のご家庭には、愛と信頼の絆があると思いました。それまでは「闘うお父様、先頭を行くお父様」でしたが、お母様や子女様とご一緒のお父様を見て初めて、ご家庭の中のお父様を知ることができたのです。
 このような真のご家庭のお姿を通して、私の信仰観が変わりました。「原理」は単なる理論ではなく、実体のご家庭、真の父母様が原理の実体であり、天国そのものであること、この真っ暗な世界の中で真のご家庭だけには神様が宿っていることを実感したのです。
 

「真のお母様、感謝します」より
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 1969年に祝福を受けてから10余年後、真のお母様(韓鶴子女史)が来日され、お母様にお供しお仕えする機会がありました。
 喫茶店に入ったときのことです。私はお母様の真向かいに座りました。すると、お母様が私の顔を見ながら、「あなたの顔は男顔ね」とおっしゃるのです。そして、「髪の両サイドとトップを平べったくしないで、膨らませた方がよい。髪は短くしないで、耳の下に来るようにしなさい」とアドバイスしてくださったのです。
 30年以上、自分の顔とつき合ってきてようやく、お母様がおっしゃるような結論を自分なりに下したところでした。私が30年以上かけてやっと出した内容を、お母様は一瞬にして見抜かれたのです。お母様の感覚の鋭さには脱帽するばかりです。
 その後、真の父母様から、日本の12人の地区婦人代表がアメリカに招待されたことがありました。そのとき私は、真のお父様のお側にいながらも、その場から消えてしまいたいというような、惨めな心情になったのです。それは、既成家庭(既に結婚していて夫婦で教会に入り、改めて神の祝福結婚をした夫婦)の方たちがたどって来られた、苦しい心情世界を体験したのだと思います。
 そのような心情的な限界に陥ったとき、お母様が突然、私を呼んでくださったのです。イーストガーデン(ニューヨーク)のお母様のお部屋の前で、「あなたは確か13号だから、きっと合うはずよ」と言われ、冬物のブレザーを下さったのです。お母様はそのブレザーを私に着せてくださいました。お母様の香りがしました。
 お母様は、霊的に明るく、すべてのことを察知される方であることを実感しました。

 

「真のお母様、感謝します」より
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 真のお母様(韓鶴子女史)は3年間の侍墓(服喪)生活を終えられた後、真のお父様(文鮮明先生)聖和(ご逝去)3周年記念式(2015年8月30日、清心平和ワールドセンター)で、次のように語られました。

 「お父様、これ以降は心配しないでください。私たちが必ずや責任完遂いたします。ですからお父様は、永遠なる本郷苑において、これまで孤独であった神様、天の父母様を慰労され、頌栄(栄光を神に帰す歌)の対象として自由の身となられることを懇求いたします!」

 私はこのみ言を会場で拝聴し、「お父様とお母様は本当に一体なのだ」とはっきりと分かりました。同時に、お父様が聖和される1カ月前の2012年8月4日に夫を霊界に送って以来、ずっと抱いてきた無念の思いや葛藤などが整理され、本当の意味で吹っ切れたのです。そして、「私も夫の遺志を受け継いで、夫と一つになって歩んでいこう」と、改めて決意させられたのです。

 2015年12月、「真の父母様招請クリスマス晩餐会」(25日)に招かれて渡韓しました。お母様は集った日本の先輩家庭たちを前に40分にわたってみ言を語ってくださいました。

 中でも印象的だったのは、「私がまだ地上に生きているのが、どれだけありがたいことでしょうか。そのことを皆さんは分からなければなりません」というみ言でした。お父様の願いである全人類の救いのために、堂々と立たれるお母様と心情を一つにして、自らの責任を果たそうと決意して帰ってきました。

 帰国した翌日の12月27日、かねてから自宅の物置小屋を改装して準備していた家庭教会の開所式を行いました。お母様の激励を受けて、都家の“神氏族メシヤ”を出発できたことを感謝しています。

 

「真のお母様、感謝します」より
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