■「征韓論」と「西南戦争」とは何だったのか。 | タマちゃんの暇つぶし

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MAG2 NEWS:「征韓論」と「西南戦争」とは何だったのか。定説という“バイアス”を取り除けば見えてくる西郷隆盛の真実2024.07.23より転載します。
 
貼り付け開始、

https://www.mag2.com/p/news/607919
 
Kagoshima,japan,-,Dec,1,2012:saigo,Takamori's,Bronze,Statue,japan's,Samurai-soldier-politician
 

維新の三傑に数えられながらも明治6年の政変に敗れ明治政府を去り、西南戦争で非業の最期を遂げた西郷隆盛。その政変の原因となった征韓論や西南戦争について、現代日本に生きる私たちはどのように解釈すべきなのでしょうか。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』ではジャーナリストの高野孟さんが、これまで語られてきたさまざまな説を詳しく紹介しつつ持論を展開。その上で、西郷を切り捨て反革命へと変転した明治政府が「大日本帝国」への道を爆走し始めたと結論付けています。

※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:西郷隆盛の「征韓論」、「西南戦争」を定説の色眼鏡を外して見直すと何が見えてくるのか?《民権論12》

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

西郷隆盛の「征韓論」、「西南戦争」を定説の色眼鏡を外して見直すと何が見えてくるのか?《民権論12》

頭山満の玄洋社は、GHQの「東京裁判」史観によれば軍部のアジア侵略の手先となった超国家主義の右翼団体であり暴力団や闇世界の支配者にも繋がる危険極まりないダークな連中ということになっており、また戦後日本の歴史学界を支配した講座派マルクス主義の立場からしても、最初は自由民権結社として出発したかも知れないが早々に国権派に「転向」してしまった唾棄すべき脱落者なのだから、民権派の歴史からは除外され無視されてしかるべきということになっている。これが教科書にも反映されている戦後日本の《定説》である。

玄洋社はそもそも「西南〔戦争〕呼応の〔福岡の変の〕残党により形成されたる団結なり」と『玄洋社社史』で宣言されており、そこを支えていたのは頭山の西郷隆盛に対する深い崇敬であったのだから、そうすると今度は、頭山の親分格である西郷その人が超国家主義の右翼の大元をなした危険人物であり、国権派に分類すべき人物なのかという問題になってくる。

次ページ:《定説》が陥ってしまう最大の逆説とは

中島の三重の引用構造にウンザリ

前回で紹介した中島岳志『アジア主義』は、これについて自身の断定的な意見を述べるのを避けていて、竹内好『日本とアジア』を引用しながらそこに孕まれた曖昧さをそのまま引き継ごうとしているかに見える。

【関連】日本人の情けなさ。「玄洋社はテロ集団でスパイ養成学校」という不良外国人のデマに簡単に引っかかる情弱ぶり

竹内は同書所収の「日本のアジア主義」の中で、大川周明が「北〔一輝〕君は、大西郷の西南の変をもって一個の反動なりとする一般史学者とは全く反対に、これをもって維新革命の逆転または不徹底に対する第二革命とした」と述べているのを引用して、このような「西郷が反革命なのではなくて、逆に西郷を追放した明治政府が反革命に転化していた」という考え方は「昭和の右翼が考え出したのではなく、明治のナショナリズムの中から芽生えたものである」と言いながら、その考え方に竹内自身は賛成なのかどうか明言せず、読者に向かって投げ出すかの次のような一節でその文章を終えている。

西郷を反革命と見るか、永久革命のシンボルと見るかは、容易に片付かぬ議論のある問題だろう。しかし、この問題と相関的でなくてはアジア主義は定義しがたい。ということは、逆にアジア主義を媒介にこの問題に接近することもまた可能だということである。我々の思想的位置を、私はこのように考える。

それをそのまま引用しつつ、中島は次節で西郷の「征韓論」の検討に入るのだが、そのどちらに味方するのかは最後まではっきりしない。

ちょっとややこしいですが、北一輝が明治政府の反革命性に対する西郷の革命性を指摘しているのを、大川周明が引用しているのを、竹内好が引用しているのを、中島岳志が引用している、という三重の引用になっていて、まあ場合によってそういう文章構造の建て方もないではないかなとは思うけれども、それで最後は「自分としてはこうだ」と中島が言い切ってくれないと、何のためにこの文章の薮を掻き分けてきたのか分からなくなってウンザリ感が募る。

渡辺京二の「逆説としての」西郷論

それとの対比で、最初から自分の言葉で「西郷隆盛」論を語り尽くしていて小気味良いのは、渡辺京二である。彼の『評論集成1 日本近代の逆説』(葦書房、99年刊)所収の「逆説としての明治十年戦争」で、《定説》ではその戦争は鹿児島士族の特権剥奪への不平と吉田松陰的な攘夷論に立つ大陸侵略の夢想とが抱き合わさった紛れもない「反動的反乱」であって、もし成功していれば日本は士族の軍事独裁体制に組み敷かれて一切の近代的改革は頓挫していたであろう「反革命の悪夢」に他ならないとされているのに対して、次々に疑問を突きつけている。

西郷に与した諸隊の中に熊本協同隊や中津隊〔や後の玄洋社となる福岡の変の烈士たち〕のような民権派軍事組織が含まれていただけでなく、むしろ後の自由民権運動自体が西郷軍への加担者・同情者の巣窟であった事実を、《定説》信奉者は知らなかったのか。――知らなかった訳ではないが、彼ら「士族民権」の狭隘な限界こそ後の自由民権運動の敗北をもたらした主因だとみなすのが《定説》の立場なのだろう。

福沢諭吉、内村鑑三、中江兆民のような進歩的市民主義的な陣営の人たちが誰よりも熱心な西郷の弁護者であったことを《定説》信奉者は無視するのか。――福沢は最も積極的な朝鮮干渉主義者であり(征韓論)、内村は二宮尊徳を崇拝する困った人物であり、中江は右だか左だか分からぬ誇大妄想家に過ぎず、こうした連中の無節操が問題だと《定説》は言っているようだ。

そのような《定説》からすれば、革命の正義は薩長藩閥政権の側にあり、大久保利通を先頭とする専制主義権力が西郷の反革命的な反乱を鎮圧し、その延長上に天皇制絶対主義を確立していったことは当然の成り行きだったということになる。ここに、《定説》が陥ってしまう最大の逆説がある。

次ページ:西郷が唱えたとされる「征韓論」とは何だったのか

西郷の「征韓論」は武力征服説だったのか

そうなると、そもそも西郷が唱えたとされる「征韓論」とは何であって、それを原因とする「明治6年政変」とは何であったのかという問題に行き着く。

《定説》では、西郷は朝鮮との国交を開くための使節に任ぜられることを望んだが、それは彼の板垣退助宛の有名な書簡に「使節を差し向ければ『暴殺』されることが予想されるが、自分は立派な外交は出来なくても死ぬくらいのことは出来るので是非自分を派遣してほしい」という趣旨のことが書かれていている通り、自分が命を捨てることで武力侵攻の口実を作ることに真の狙いがあり、これこそ彼が最悪の「征韓論者」であったことの証拠だとされてきた。

しかし、中島も引用・紹介しているように、この《定説》に真っ向から挑んだ話題の書は、毛利敏彦『明治六年政変の研究』(有斐閣、1978年刊)と『明治六年政変』(中公新書、79年刊)で、「西郷は征韓論者などではなく、むしろ平和的・道義的交渉論を展開していた」のであり、上述の書簡の文言はそれこそ強硬論一本槍で即時派兵を主張していた板垣を説得するテクニックにすぎなかったという解釈を打ち出した。実際、西郷が後に太政大臣に提出したこの件に関する「始末書」では、「派兵は適当でなく、武力闘争になってしまえば元々の趣旨に反する。使節に対する暴挙を計るのではないかと疑念を持って、あらかじめ戦争の準備をして使節を派遣するというのは礼を失することになる」という趣旨を述べていて、ここにこそ彼の真意があったと毛利は指摘している。

ここでも中島は、この毛利説への賛否を明言せず、それに対する歴史学者や政治学者の反発を並べて、所謂バランスをとっている。それに対して渡辺京二は、同じく毛利説を紹介しながら、しかし西郷のその文言が板垣への説得テクニックだったという解釈には「それはいささか疑わしい」と注文をつけている。

大久保は西郷を切りたかった

渡辺によると……、

▼西郷は日・清・韓の軍事同盟論者である。仮想敵はロシアで、その脅威に対抗するため朝鮮・満州における軍事行動をつねに考えていた。そのために部下を現地調査に派遣しさえした。軍事同盟は軍事基地の租借を含むものであったと考えられる。

▼朝鮮との国交は、ロシアに対する共同防衛体制の確立のために必要とされた。もし共同防衛を受け入れぬならば、戦争によって朝鮮の現体制を変革することも辞さぬというのが、西郷「征韓論」の実体である。彼の考えでは朝鮮の国益を考慮した上での武力干渉であったろうが、その「道義的」アジア主義が、朝鮮の独立をそこなうものであることは疑問の余地がない。

▼大久保は論点を歪曲した。西郷の主張はさしあたって平和交渉であるのに、それが即開戦を意味するかのように短絡させ、外征か内治かという対立にすりかえた。このすり替えは二重に欺瞞的で、なぜならこの翌年、大久保は江華島事件という典型的な「外征」を自ら行ってみせたからである。

▼毛利は、征韓論争は長州派対佐賀派(とくに江藤新平)の派閥争いが真相で、大久保は長派に利用されて、追い出す必要のない西郷まで追い出してしまったと言う。私の考えではもっとも大事な視点が抜けている。大久保は西郷その人と切れたかったのである……。

私はこの渡辺説にほぼ賛成である。西郷が性急な派兵に反対したからといって、武力を用いたくない平和主義者だったなどということはあり得ない。この時期すでに、満州から朝鮮へと手を伸ばそうとするロシアの脅威は、何派に限らず切迫感をもって受け止められていて、いざとなれば武力を用いても朝鮮を同盟に引き込まなければならないというのは共通認識だった。

次ページ:大久保が西郷を切り離したかった根本的な理由

「日韓合邦」か「韓国併合」かの大違い

渡辺は、大久保が西郷を切り離したかった根本的な理由として、「専制権力による近代化の強行しかあり得ない」という大久保の内政への国権的な考え方に対する最大の障害が西郷だったことを指摘する。西郷は「文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず」として、電信鉄道、「蒸気仕掛けの器械」の導入を急ぐなと叱咤していた。

西郷には維新後にどういう国を築くのかの構想がなかったとは、散々言われてきたことだが、渡辺に言わせれば、それは確かに漠たるイメージのようなものであったかもしれないが、「基本的に共同体農民の国家」――鹿児島の門閥制度の中に保存されていた土地共有の「美風」を強化し、「それも理想的には村落共同体的所有を擁護」して地主的所有の肥大への防波堤とし、その先に「そのような小農民に課す10分の1ないし20分の1の田租を基礎とする簡素で安上がりな国家、……小農民経済の上に立つ漸進的な近代化、いわば低成長主義」――私なりに敢えて言い換えれば「小日本主義」の方向性で、そこにおいて西郷は上からの国権強化による「大日本主義」の先導者=大久保と致命的に対立するのである。

対外政策、対韓政策についても、最後は武力を用いざるを得ないことをも想定する点では両者同じのようではあるが、西郷があくまで平和的交渉を通じての朝鮮の独立支援とその実現の暁の同盟関係をイメージしていたのに対し、大久保や伊藤博文が狙ったのは強圧によって韓国を組み敷こうとする侵略主義であり、それは後年、宮崎滔天や内田良平の黒龍会の「日韓〔の水平的な対等〕合邦」論か藩閥政府による「韓国〔の垂直的・一方的な〕併合」論(すなわち植民地化論)かの、似たようでいて決定的に異質な方式の対立へと繋がっていく。

つまり、明治6年政変で同じ薩摩の出の大久保と西郷が決別したことで、前者は国権主義、後者は民権主義という大きな分岐が生じた。維新政府は明治2(1869)年に太政官制を設け、左右大臣と大納言の下に後の内閣に当たる「参議」数名を置いて行政を取り仕切ることになったが、それがひとまず落ち着いた形をなすのは明治4年の6月から7月にかけてで、この時に木戸孝允(長州)、大隈重信(肥前)に加え、故郷に戻っていた西郷(薩摩)と板垣退助(土佐)が呼び戻されて参議に加わり、また前後して後藤象二郎(土佐)、大木喬任(肥前)、江藤新平(肥前)、副島種臣(肥前)、大久保利通(薩摩)も入って参議9人体制となる。

が、それが続いたのは2年4ヵ月で、上述の征韓論を中心とする対立が激化して明治6年政変となり、西郷、板垣、後藤、江藤、副島の5人が一斉辞職。替わって伊藤博文(長州)、勝海舟(幕臣)、寺島宗則(薩摩)が入り、ここに大久保=伊藤の国権派枢軸の形成が始まった(図1参照)。ということは、ここで「維新」は終わって、何らかの程度で革命性を帯びていた(と言えるかもしれない)明治政府は西郷と板垣を切り捨てることで反革命へと変転し、日本は天皇を頂点とする「大日本帝国」への道を爆走し始めたと言えるのである。

仮に西郷がもう少し政略に長けていて(というか興味を持っていて)大久保、伊藤の官吏風情の類にこの国を委ねなかったならば、150年後の今日、我々は一体どんな国柄に生きていることになったのだろうか。

(メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2024年7月22日号より一部抜粋・文中敬称略。ご興味をお持ちの方はご登録の上お楽しみください。初月無料です)


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