■やりたい放題「カオス都知事選」に | タマちゃんの暇つぶし

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MAG2 NEWS:やりたい放題「カオス都知事選」に立命館大学教授が警鐘。NHK党の悪ノリも自民の裏金も日本国民の“写し鏡”だ2024.06.27より転載します。
 
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https://www.mag2.com/p/news/602416
 
km20240626
 

東京都知事選における「NHKから国民を守る党」や衆院東京15区補選の「つばさの党」などによる、選挙戦での目に余る悪ふざけや蛮行とも言えるパフォーマンス。あまりの酷さに公職選挙法の改正を訴える声も多く上がっていますが、法改正を「筋が悪い」とする見方もあるようです。政治学者で立命館大学政策科学部教授の上久保誠人さんは今回、国民の側が毅然たる態度で選挙に臨む姿勢を示さない限り政治家は変わらないと断言。その上で、何が上記2党のような団体が跋扈する政治現象を生み出したのかについて考察しています。

※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:脆弱さが露呈。立命館大学教授がカオス都知事選を機に考える選挙制度

プロフィール:上久保誠人(かみくぼ・まさと)
立命館大学政策科学部教授。1968年愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、伊藤忠商事勤務を経て、英国ウォーリック大学大学院政治・国際学研究科博士課程修了。Ph.D(政治学・国際学、ウォーリック大学)。主な業績は、『逆説の地政学』(晃洋書房)。

NHK党も自民党も国民を見て行動。有権者が毅然と選挙に臨む姿勢を示さなければ政界の劣化は続く

東京都知事選に過去最多の56人が立候補した。選挙ポスター掲示板が波紋を広げている。ある候補者は、ほぼ全裸で局部をシールで隠しただけの女性の選挙ポスターを掲示した。

また、掲示板に候補者と直接関係のない同じ人物やデザインのポスターが多数張られた。掲示板には、さまざまな人物の画像とともに、デザインの同じピンク色のポスターがずらりと張られていた。

仕掛けたのは、政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首だ。NHK党は24人の候補者を都知事選に擁立した。立花氏は、候補者を大量擁立して選挙ポスターの掲示板を占有し、党に寄付した人の主張をポスターに掲載するという、型破りの構想を打ち出した。

NHK党によれば、5月末日までは1カ所5,000円、6月1日~19日は1万円、20日以降は3万円を党に寄付すれば、都内約1万4,000カ所にあるポスター掲示板のうち1カ所で、独自に作成したポスターを最大で24枚貼れる。

ポスターのデザインや内容は、立候補者ではない寄付者が考えたもので、QRコードなどが掲載されることになる。読み込むと特定の交流サイト(SNS)の画面に誘導される。まるで、風俗の広告としか思えないようなポスターもある。

公職選挙法上、これらのポスターは規制ができないのだという。内容についての規制はないからだ。ほぼ全裸のポスターは、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」に違反するとして、警視庁から警告を受けて、最終的に撤去した。また、掲示板に風俗店の店名などを記載したポスターを貼ったことについても、警視庁が風営法違反にあたる疑いがあるとして、政治団体の代表に対して警告を行った。警告の後、ポスターは政治団体によって貼り替えられたという。

だが、これはあくまで条例や風営法の違反であって、公職選挙法違反での摘発ではない。公職選挙法上、これらのポスターは規制ができない。内容についての規制はないからだ。

公職選挙法の改正など、今後どう規制していくかの議論は、すでに他の識者などによって行われている。候補に際して必要な「供託金」の金額を引き上げること、推薦人制度を導入すること、ポスターに関して本人の顔写真を加工無しで掲載することを条件とすること、などさまざまな案が出ている。筆者は、法改正が必要ならば、すればいいと思う。

ただ、私は政治に関して、法改正による「罰則」を強化するのは、筋が悪いだと思っている。政治家とは選ばれたすぐれた人、「選良」であるはずだからだ。「選良」は、政治活動をいちいち罰則で縛る必要はない人たちである。

国民が変わらなければ解決しない「本質的な問題」

政治とは、社会の中で考えや利害が異なる人たちの間に入って調整し、丸く収める生業だ。社会とは学級会ではない。単純に多数決だけで丸く収まるものではない。

表に出せない話がある。綺麗事だけでは物事は決まらない。その調整ができるのは、優れた見識を持ち、その上社会の裏も表も知り、人生の酸いも甘いも知る、人格的に完成された人物でないといけないはずだ。

これは、あくまで理論的な話と断ってはおく。だが、理論的な真面目さを保たないと、現実は複雑で、なんでもありなのだと、話のレベルが底割れしてしまう。筆者は学者なのだから、現実を理解しながらも、政治家とは「選良」であるべきだと愚直に言い続けたい。

何度でも強調するが、「選良」である政治家を「罰則」で縛るのはよろしくない。縛らなくても、犯罪と疑われるような行動をすることはない人物であるべきだ。筆者は常々、政治の問題は、国民が変わらなければ、この問題は終わらないと言い続けてきた。

例えば「政治とカネ」の問題である。政治にカネが必要なのは、政治活動にカネがかかるからだ。蓄財に励む議員がいると批判されるが、それはごく一部である。多くの議員は日常の活動のカネのやりくりに苦労しているのが実情だ。

政治活動とは、具体的には個人後援会、支援団体、その他各種団体、地方自治体、地方議会議員などとの連絡や要望等の吸い上げ、中央官庁への陳情の媒介、冠婚葬祭への出席などであった。

かつては、地元の有権者向けの国会見学や東京見物などのツアーコンダクターのようなこともしていた。現在はさすがにそういうことは少なくなったが、経費の大部分がそれらに費やされ、金額的負担も莫大であった。議員たちは、これらの利益誘導のための政治資金を確保するために散々苦労していた。その結果、さまざまな「政治とカネ」の問題が起こってきたのだ。

90年代前半に入ると、選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)や政治資金制度改革がなされ、選挙は利益誘導よりも政策を競うものに変化した。だが、それでも政治資金規正法違反が起こり続けたのは周知の通りだ。整備されたはずのルールの「抜け道」を探し、裏金作りが横行した。閣僚の辞任も常態化した。挙げ句の果てに、「パー券問題」まで発生した。

制度改革を行ったにもかかわらず「政治とカネ」の問題が続くのはなぜか。政治家が悪いというのは簡単だ。だが、より本質的な問題は「議員の地元活動」について一切是正されなかったことだ。それどころか、小選挙区制によって選挙区が小さくなったことで、議員と地元の関係はより密になった。その状況下で政治資金規正法が改正されたことで、選挙基盤の弱い国会議員は資金集めがより難しくなった。

特に非世襲や若手の議員は、政治資金のやりくりに苦しんでいたはずだ。だからこそ、派閥や地元の指示に従い、抜け道を探して裏金を受け取るなどの行為に走らざるを得なくなったといえる。

なぜ地元活動は是正されなかったかというと、「政治家は、選挙で落ちたらタダの人」だからだ。政治家が急に「国会の活動を優先する」「これまで便宜を図ってきたことをやめる」と言い出して、地元の支持層との関係性を弱めようとすると、地元の猛反発を受けかねない。集票力が一気に弱まることが懸念された。

だからこそ政治家は、この構図に問題があると痛感しつつも指摘しづらかったのだろう。政治に関心がなく、実態を知らない国民も一定数存在するため、世論が「議員の地元活動」を疑問視することもなかった。筆者が先ほど「国民にも責任がある」と述べた理由はここにある。

スキャンダルが起こる度に、国民が議員個人を徹底的にバッシングし、議員が辞任したら「撃ち方やめ」を繰り返すだけでは、本質的な問題は解決しないのだ。どうすれば政治家が地元活動に頼らず、カネのかからない政治ができるのか、国民の側も考えなければならない。

要するに、政治家を批判するだけでは不十分だ。彼らは国民をみて行動しているのだ。国民の側が変わり、毅然としてまじめに政治家を選ぶ姿勢を示さなければ、政治は変わらない。

有権者が確固たる意志を持ち拒絶すべき「悪い奴ら」の動き

東京都知事選に話を戻す。「金儲け」のためのポスターを出す人が現れるのは、それを買う人が多数いて、儲かると思うからに他ならない。言い換えれば、「金儲け」にならないなら変なポスターを貼らないし、そもそも立候補してこないはずだ。

つまり、有権者が「金儲け」に加担することなく、「政策」中心に見識を持って都知事を選べばいいだけのことだ。筆者は、それは不可能なことではないと思う。結局、政治も「市場原理(マーケット・メカニズム)」のようなもので動いているからだ。

都知事選の選挙ポスター掲示板に、条例違反や風営法違反が疑われるポスターが多数掲示された時、東京都選挙管理委員会の電話がひっきりなしに鳴り、告示翌日の21日までに1,000件以上の苦情や問い合わせが寄せられたことはよかった。

有権者から、変なポスターに対して、明確にNOが示されたからだ。警察も動きやすくなり、ポスターが撤去されて、金儲けができなかったのだ。

法改正して罰則を設けても、悪い奴らは抜け穴を探して、金儲けの手段を見つける。それよりも、有権者自身が確固たる意志を持って、そういう動きを拒絶することが大事だ。

欧州の「大衆迎合主義」とは異なる日本の政治現象

最後に、現在日本の政治に起こっている現象について、より大きな視点から考えてみたい。日本にも、SNSなどを利用した新しい政治勢力の参加が起こっている。この連載では、はそれを歴史的な経緯も踏まえて整理した。

【関連】選挙妨害で逮捕「つばさの党」の街宣は何が問題なのか?立命館大学教授が斬る「表現の自由」と「選挙制度ハック」そして「ミニ政党の乱立」

だが、この現象は、欧州で再び拡がり始めている「大衆迎合主義(ポピュリズム)」とは異なるものではないかと思い始めている。

欧州のポピュリズムは、既存の右派政党(保守政党)と左派政党(リベラル政党)が、都市部に人口が移動したことで、都市部の中道層の票を獲得することが政権獲得につながるようになったことで、既存の支持者を置き去りにして都市部の票の獲得競争をしたことで起こった。保守・リベラルともに市場主義・競争主義・規制緩和・自由化・民営化などを争って実行するようになったからだ。それが1980年代から2008年のリーマンショック前までの「新自由主義の時代」といえるだろう。

コアな支持者は、間違っても左派は右派に投票しないし、右派は左派に投票しないという政党側の安心感でもあった。しかし、コアな支持者は長らく疎外感を感じていた。移民に仕事を奪われたり、都市部と地方の格差が広がったりしても、政党は都市に目を向けるばかりという不満も募っていった。

そこに出現したのが、極右・極左の大衆迎合政党だった。彼らは、置き去りにされた既存政党のコアな支持者に彼らの利益を守るとダイレクトに訴えた。移民排斥など感情的な訴えをSNSなど洗練された方法で行い、劇的に支持を拡大した。

重要なのは、極左であれ極右であれ、大衆迎合政党はその言い方は過激だとしても、あくまで既存の政党から「置き去りにされた人たち」であり、社会から「疎外された人たち」に寄り添っていったということだ。つまり、あくまで「大衆迎合」とは「大衆」のためだということだ。

要するに「弱き者の味方」というスタンスは一貫しているのだ。もちろん、それは表面的な綺麗事だというのは当然だ。大衆迎合政党は、例えば「移民」のように敵を明確に作って煽ることで指示を拡大してきた。ただ、それはあくまで、本当の弱者を守るという建前になっている。そして、それが、政治活動として最低限の節度を保つことにもつながってきた。

「弱き者の味方」と真逆の路線を走り続ける日本の恥

一方、日本の現状はどうか。筆者自身が書いたように、地方政治には、日常の問題に地道に向き合い、取り組もうとする新しい政治家が多数生まれている。しかし、単なる売名行為、単なる金儲けのための活動が増加しているのも事実だ。

「東京15区補選」のつばさの党や、「東京都知事選」の選挙ポスター問題をみると、彼らは「弱き者の味方」ではないことがわかる。つばさの党の行為は、対立する候補や政党に対する妨害行為である。自分たちよりも「強者」に挑むもののようにみえる。だが、実際は、圧力行為、言葉による暴力で怖がってしまい、政治から遠ざかるのは、候補者や政党よりも、演説を聴きたかった「庶民」のほうだ。

彼らの言葉から「庶民」に対する優しさは微塵も感じられなかった。その暴力がその場にいた自分に向けられるかわからないと恐怖して近寄らなくなった。それが、過去にない低投票率の一因となったのは間違いない。

また、東京都知事選のポスターだが、「こどもにはみせられない」内容が含まれた。また、風俗店の広告にしか見えないようなものは、女性などへの人権への配慮をあまりにも欠いていた。

かつて、自民党で「40日抗争」と呼ばれた党内抗争の激化があった。その時、自民党本部にバリケードを築いた通称「ハマコー」と呼ばれた浜田幸一という政治家がいた。ハマコーは、3日3晩考えて、集まったテレビカメラの前で反対派に訴えた。「自民党はお前たちのためにあるんじゃない。自民党はこどもたちのためにあるんだ!」と。昔の笑い話ではあるが、ハマコーでさえ、「こどもたちのため!」と叫んだのだ。

また、昔イタリアに「愛の党」を結成して国会議員となった、元ポルノ女優のチチョリーナという人がいた。半裸で演説したり、性犯罪を防ぐために「公園でのカーセックス合法化」を主張したりした。90年に湾岸危機が勃発し、多くの人がイラクで人質になった時には、「わたしがあなたの女になるから、人質を解放して!」とサダム・フセインに訴えて無視されるなど、派手な言動で知られた。だが、だが、常に「愛と平和」を訴える思想信条は一貫していたのだ。

要するに、それほど政治というものにとって「こども」「女性」など、いわゆる「弱者」は絶対的に守るべき対象であるはずだ。大衆迎合政党ならば、尚の事である。それなのに、「こども」や「女性」に寄り添うどころか、公然と愚弄して傷つけても平気だ。金儲けになればなんでもいいという考えが、これほど公然と政治の表面に出てくるのは、世界的にみて珍しい。

この現象を、「日本の恥」と批判する人は少なくない。その批判に筆者が1つ付け加えるならば、これは恥ずかしいだけではない。欧州の大衆迎合主義(ポピュリズム)とは、全く違うということだ。繰り返すが大衆迎合とは「弱き者の味方」だ。弱き者を平気で傷つけるのとは真逆だ。もしかすると日本の独特のインターネット文化が生み出した、日本発の変わった政治現象が生まれているということなのではないかと考える。

image by: X(@nhkparty

上久保誠人


プロフィール:上久保誠人(かみくぼ・まさと)立命館大学政策科学部教授。1968年愛媛県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、伊藤忠商事勤務を経て、英国ウォーリック大学大学院政治・国際学研究科博士課程修了。Ph.D(政治学・国際学、ウォーリック大学)。主な業績は、『逆説の地政学』(晃洋書房)。

 

貼り付け終わり、