■水俣病被害者マイク音オフ問題で露呈した、岸田自民「謙虚さ」も「聞く力」も喪失した深刻な現状 | タマちゃんの暇つぶし

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MAG2 NEWS:水俣病被害者マイク音オフ問題で露呈した、岸田自民「謙虚さ」も「聞く力」も喪失した深刻な現状2024.05.13より転載します。
 
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https://www.mag2.com/p/news/598570
 
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5月1日に行われた水俣病の患者・被害者らと伊藤環境相との懇談の際、被害者の発言中にマイクの電源を切り大きな批判を浴びることとなった環境省。何が彼らをかような「暴挙」に走らせたのでしょうか。今回、毎日新聞で政治部副部長などを務めた経験を持つジャーナリストの尾中 香尚里さんは、謙虚さを失った自民党の姿勢に原因があると指摘。その上で、聞く力を喪失した同党にはもはや「ごく普通の政権運営ができる能力」すら見出すことはできないとの厳しい見方を示しています。

※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:環境省の「マイク切る」問題

プロフィール:尾中 香尚里おなか・かおり
ジャーナリスト。1965年、福岡県生まれ。1988年毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを経て、2019年9月に退社。新著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書)、共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。

以前から準備していたシナリオ。何が環境省「水俣病被害者マイク音オフ」問題を招いたか

水俣病の患者・被害者らと伊藤信太郎環境相との懇談の席(1日)で、環境省の職員が被害者の発言中にマイクを切って発言を遮り、1週間後の8日になって伊藤環境相が謝罪に追い込まれた問題が、大きな批判を受けている。マイクオフ自体もさることながら、さらに驚かされたのは、同じ8日の衆院内閣委員会で、環境省が今回の対応について「以前から準備しており、今回初めて発動した」ことを認めたことだった。

今回の問題でまず思い出したのは、前身の環境庁時代の1977年、石原慎太郎環境庁長官が水俣病患者に対し「IQが低いわけですね」などと差別発言し、謝罪に追い込まれたことだったが、あれは多分に石原氏個人の資質の欠如とみることもできた。環境省が「以前から準備していた」のを認めたことで、今回のマイクオフ問題は、より組織的な問題だったことになる。

百歩譲って「官僚が勝手に暴走した」としても、現場にいた伊藤氏は「私はマイクを切ったことについては認識しておりません」と述べ、事務方をたしなめることも、患者側に改めて発言を促すこともせずにその場を立ち去った。こうなるとそれはもう閣僚としての問題だし、岸田文雄首相が伊藤氏の続投を認めたのは、内閣全体の姿勢の問題と言わざるを得ないだろう。この問題を国会で取り上げた立憲民主党の中谷一馬氏は「岸田政権の『聞く力』のなさを体現している」と批判したが、同感だ。

こういう場面に接するたびに思い出してしまうのが、中谷氏の「師匠」でもある菅直人元首相の、民主党政権時代の対応だ。東京電力福島第一原発事故で避難を強いられた住民の避難所を訪ねた時に、避難所を去ろうとした菅氏に被災者から「もう帰るんですか!」と声をかけられた場面である。

この場面は当時から、テレビやネットなどで何度となく繰り返された。「被災者に冷たい首相」のイメージが、これでもかとばかりに喧伝された。現在でもこのイメージを持ったまま、今回の伊藤氏の姿と重ねる人もいるかもしれない。

しかし、このエピソードには「続き」がある。

【関連】ほぼ国民への宣戦布告。岸田自民が導入図る「インチキ連座制」のふざけた正体 日本を欺く集団に #政権交代 の裁き下るか

まさに「聞く力」を持っていたかつての自民党

菅氏が福島県田村市の避難所を訪ねたのは、東日本大震災と福島原発事故の発生から約1カ月が過ぎた2011年4月のこと。避難所訪問は初めてだった。菅氏は避難所で7人の住民と話をした後、一度は足早にその場を離れようとした。菅氏はこの後もう一つの避難所を訪問し、その日のうちに帰京してオーストラリアのギラード首相との会談を行う予定だった。

「後に日程があった」点では、今回の環境省のマイクオフ問題とも重なる点がある。だが、違いはこの後だ。「無視して行かれる気持ちって分かりますか」。被災した住民夫婦からこう声をかけられた菅氏は、その場で引き返すと夫婦に謝罪を繰り返した。「ごめんなさい、話聞かせてください。そんなつもりじゃなかったんです」

菅氏はその後、被災者の言葉に黙って耳を傾け続けた。「ひどく傷つきました」「(内閣の人たちを)みんなここに連れてきて生活してみてください」。次々に投げかけられる言葉を受け止めると、菅氏は最後に「長い避難生活で本当に大変だと思いますけど、子供さんのためにも全力を挙げてやりますんで」と声をかけた。続いて訪れた郡山市の避難所では、当初予定より時間をかけて多くの被災者に声をかけて回り、ギラード首相との会談は30分以上遅れた。

「もっと被災者の立場で全てのことを考えなければならないと痛感した」と記者団に語った菅氏は、2度目となる埼玉県加須市の避難所訪問では、5時間にわたって約1,200人のほとんどの住民と言葉を交わし、同行した上田清司知事(当時)を「菅首相の『ど根性』を見た」と驚かせている。

思えば、ミニ政党出身だった菅氏が「将来の首相候補」に名乗りを上げるきっかけとなったのは、厚相当時の1996年、薬害エイズ問題で国の責任を認め、被害者に謝罪したことだった。官僚を怒鳴りつける「イラ菅」という印象が残る菅氏だが、本当に政治が耳を傾けるべき存在に対しては、謙虚な姿勢で臨むことを貫いてきた、ということなのかもしれない。

ちなみに、原発事故は民主党政権で、自民党は野党だったが、薬害エイズ問題での謝罪は、自民党の橋本龍太郎政権で行われている。当時はまだ民主党が存在しておらず、菅氏は小政党「さきがけ」の一員として、自民、社会、さきがけの3党が連立した橋本政権の閣僚として、薬害エイズ問題に取り組んだ。

あの謝罪は菅氏個人が行ったことではない。それを「政権の姿勢」として受け止める橋本龍太郎首相の存在があったことも忘れてはならない。

当時は自民党にも、こうした謙虚な姿勢が残っていた。1993年の細川政権樹立で初めての野党転落を経験し、翌年の村山政権発足で政権に復帰したばかりだった自民党は、野党をはじめ党外のさまざまな声に耳を傾ける、まさに「聞く力」を持っていたと思う。

民主党政権の発足(2009年)で2度目の野党転落を経て政権に復帰した自民党からは、こうした姿勢がほぼ消えてしまった。国民の声をまともに聞かずに独善的な政策をぶち上げ、それが行き詰まると「国民の誤解」などと言って国民の側に責任を押しつけるような態度は、新型コロナウイルス感染症の対応でも、マイナンバーカードと健康保険証の一体化問題などでも、散々みられた姿だ。そんな態度をとっておきながら、堂々と「聞く力」を標榜して平気な顔をしていられる。それが現在の自民党だ。

かつての自民党にそれなりにみられた「ごく普通の政権運営ができる能力」を、筆者はもはやこの党に見いだすことはできない。

改めて自民党の惨憺たる現状を感じさせた「ある会見」

環境省の「マイク切り」問題で伊藤氏が謝罪に追い込まれたのと同じ8日、徳島市で一つの記者会見があった。立憲民主党が次期衆院選の徳島1区への擁立を決めた新人、高橋永氏の出馬会見だった。高橋氏はかつて自民党で「クリーン三木」と呼ばれた三木武夫元首相の孫にあたる。会見で高橋氏は「政治への信頼を回復し、三木武夫や母(元参院議員の高橋紀世子氏)も目指したクリーンな政治を実現したい」と語った。

裏金問題に揺れる自民党に三木氏のような人物が残っていれば、とも思うが、ここでは違うことに触れたい。

首相就任前に副総理兼環境庁長官を務めていた三木氏は、1973年に水俣を訪れ、胎児性水俣病患者の女性をその手に抱きかかえながら被害者の話に耳を傾けた。三木氏は被害者に対し、国の事業として水俣病の研究を行うことを約束。これが5年後の78年に設立された国立水俣病研究センター(現・国立水俣病総合研究センター)である。

こういう政治家と縁のある人物が、自民党ではなく野党の立憲民主党からの出馬を選んだこと自体に、改めて自民党の惨憺たる現状を感じるのは筆者だけだろうか

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image by: 伊藤 信太郎 - Home | Facebook

尾中香尚里


プロフィール:尾中 香尚里(おなか・かおり)
ジャーナリスト。1965年、福岡県生まれ。1988年毎日新聞に入社し、政治部で主に野党や国会を中心に取材。政治部副部長、川崎支局長、オピニオングループ編集委員などを経て、2019年9月に退社。新著「安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ」(集英社新書)、共著に「枝野幸男の真価」(毎日新聞出版)。