大震災から10年になります。
まずは、震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
ご遺族の方には、改めてお悔やみを申し上げたいと思います。
被害に遭われた方にはお見舞いを申し上げます。
私はその日は仕事で、お茶の水のビルの7階にいました。
最初は「あ、また地震だ」と思いましたが、すぐ収まるだろうと高をくくっていました。
ところが、なかなか揺れが収まらずますます大きくなり、いつもとは違うなと感じました。
初めて大きな地震に遭遇したのか、近くにいたオーストリア人の社員が目を丸くし、あまり騒がない我々を見て、不思議そうな顔をしていたのが印象的でした。
地震がおさまると、彼は階段を下りて、お茶ノ水駅の方に様子を見に行ったようでした。
電車も全面停止で、地震の巨大さも分かったので、臨時休業となり神奈川県方面に住んでいる私を含む3名は、とりあえず一緒に徒歩で帰宅するべく会社をでました。
私は、当時は横浜市の戸塚区に住んでいました。
一緒に行動した後の2名は、川崎市と鎌倉市在住でした。
3人で話し合い、今回の地震規模が大きく、会社にとどまったりホテルを手配しても、いつ復旧するか予測がつかない事と、翌日は土曜日で、とにかく日が明るいうちに出来るだけ家に近付いた方が良いのではという事となり、横浜方面に向かい歩き始めました。
まずは、品川駅を目指しました。
地震規模は大きいが、震源地より遠い東京では、建物の被害なども見られませんでした。
品川駅までたどり着いたころには、線路の安全確認がとれて、電車が動き始めてるのではという期待感が有ったのです。
しかし、品川駅に着きましたが、アナウンスでは「本日は終日運休」ということでした。
3人で相談して、先は長いので駅の近くで軽く食事をしました。5時半頃だったと思います。
その後再び国道沿いに、南に向かって歩き始めましたが、多くの人が同じように歩いていました。
国道の車道の車は、渋滞で全く動いていませんでした。
3月半ばで、日が傾くと気温は下がりましたが、風が無かったのであまり寒くは感じませんでした。
途中歩道から溢れた人たちは、車が動かない車道に降りて歩いていました。
トイレはコンビニで借用しましたが、お店の外まで多くの人が並んでいました。
そして、川崎駅の近くまでやっと着きました。そこまでくると道路の渋滞も無くなり、車も動き出していました
川崎に住んでいるMさんが自宅に電話して、奥さんが車で迎えにきてくれました。
ひとまず、車に乗せてもらってMさんの家まで行き、そこで奥さんを降ろして、Mさんは私と鎌倉に住むSさんを乗せて私の家まで送ってくれました。
私の家に着くと、Mさんはそのまま自宅に帰ってもらい、今度は私が自分の車にSさんを乗せて送り届けるという順番です。
Sさんを、鎌倉駅に近いお家に送り届けて、私の自宅に車で帰ったら、午前4時になっていました。
お茶の水から、川崎までは約24Kmほど歩いたことになります。
人生の中で、最も長い距離を歩いたことになります。
当日の、首都圏で発生した帰宅難民は約200万人ということですが、私もその内の一人として経験したことを、思い出しながら書いてみました。