NODA・MAP第19回公演『エッグ』@東京芸術劇場 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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今回観劇してきた舞台作品は、2012年公演のオリジナルキャストによる再演なんですが、2020年に東京オリンピックが決定したことにより、若干意味合いが違うかもしれないという2015年版『エッグ』になります。




あらすじだけ転載しておくと下記のようなストーリーになります。

【架空のスポーツ種目“エッグ”に情熱を注ぎ、オリンピックで栄光を掴む日を夢見続ける二人のアスリート(妻夫木聡、仲村トオル)。そして彼らの間で歌い、踊り、そして心揺れ動く女性シンガーソングライター(深津絵里)。二十世紀最大のカルチャーとして君臨した“スポーツ”と“音楽”。そこに向けられる大衆の熱狂。愛情、嫉妬、私欲、時代。物語の表層は徐々に--それこそ卵の殻の如く--ヒビが走り始め、内包していた“真の姿”を観客の前にさらけ出していく・・・】


~ここからネタバレ~


いやあビックリですな。話しが飛びまくり、そもそも舞台の時代設定が分からない。てっきりビジュアルイメージから未来の話し(2020年)なんだと思っていたら、どうも1964年の東京オリンピックを目指しているらしい、いや、1940年の幻の東京オリンピックを目指しているらしい、いや、どうもオリンピックなんて目指してない、といより“エッグに情熱を注いでいた”なんて事実は存在してない、じゃあエッグってなに?と話しは過去に遡り、まさかまさかの満州へ飛び、現地での愚行が解き明かされ、その後、国民の思考能力をいかにして、スポーツやエンタメ(ここでは音楽)で奪ってきたのかが語られます。


野田さんの評判のステージングは初見でしたが、素晴らしいの一言でした。有効と思えない部分もありますが、ああいう風に美術を動かしつつストーリーテリングに活かしていく本というのは書くのが大変だよね。頭が下がります。


舞台は自由といっても、どっちかというと貧乏舞台の、ないところをいかに工夫してあるように見せるのか、そういう意識ならあったけど、ある物を二転三転意味を付け替えて見せていくというのは、案外難しいよなあ。脇役の美術なら簡単だが、それこそメインの美術でここまでやるのは難しい。




ロッカーを棺桶に、集団就職を満州開拓団にと、野田さんは、結局、脚本にしろ、演出にしろ無駄がない。綺麗で、スマート、そういう印象かな。まあでも、それと主題を観客にねじ込むのはまた別問題だから、これは善し悪しかもしらんね。


さて、本作は簡単に言うなれば、現状日本国への危惧の表明なんだけれど、そこに731部隊のような話しを持ち出すことにつき、舞台観劇という芸術またはエンタメとは、社会にとっていったいなんぞやと考えてしまう。高いチケット代を払って舞台観劇しに来て、そこで語られるおぞましい日本の過去の歴史。それは野田さんのステージングにより、時に美しくさえ提示される。


いったいお客になにを求めているのか。意識が少しでも変わることが期待されているのだろうか。それとも一部の知識人だけに影響があればいいのか。こういう作品を観るといつも考えてしまう。1人でも多くの人に思いを伝えたいなら、舞台のDVDTSUTAYAにでもおろして、1人でも多くの方に観てもらい、少しでも多くの影響を現状の日本国に与えたいそう思わなければ嘘だ。でもそうはならない。高いチケット代を払った人間だけが観られる。舞台の上で語られる主題とその手法の矛盾に行き当たってしまう。


わたしの愛す映画や小説の大衆性と、観客が忘れれば存在さえしえない舞台芸術は、そこに根本的な違いがあり、今回の野田さんの作品は、それこそ観客が自分の心や芯に受け取ったものを刻まなければ、なんの意味もない話しだった。そういう意味で、野田さんのステージングと語られるべき、この物語の魂は一致してない気がする。手法に難ありだ。


個人的な嗜好の問題になってしまうけど、こういう話しはもっとストレートに語られて欲しいんだよ。こんなエンタメ感というか、スポーツや歌の二面性をステージ上で一度に示したりする匠さの中で提示されたくないんだよ。それこそ野田さん上手いなと感心するばかりで、主題を際立たせる一助にはなってないと思うんだ。


確かに、本作はなにも731部隊や3S政策の効用を語っているのではなく、情報格差で被害を受けるものと、勝ち逃げしていくもののいる東日本大震災のあと、そう、現状日本のことを指し語っているんだけど、数年後にくる東京オリンピックのバカ騒ぎ、震災被害・原発問題が忘れられていくであろう予言、ベール一枚隔てれば、死さえ美しく見せられる、情報は操作され、隠され、変わりに見映えのする美しいものを提供されたら、それはもうどうにもならないのかもしれない、止められない諦めか。


現状の日本を語るに、この作品には東京オリンピックを迎える日本に対する覚悟がない。矛盾を感じてしまうのでした。震災直後、三谷さんの「国民の映画」を観劇しに横浜まで行った際、舞台が幕をあける前にに三谷さんが登壇し、演出家としての有り様を観客に向けて放ったあの時ような、そんな熱いものが、この「エッグ」を再演する意味に込められているべきだったんじゃないのと、なんとなく思って、寂しかった。


各論的には、役者の一部は箱の広さのわりには声が出ていたとは思えず、歌も聴き取りにくかった。ステージングや演出にはっとする部分が多数あり、野田さんのステージングを初めて観た身としては勉強になるところ多々あったけど、野田さんの舞台は、役者のものではなく、演出家のものだよなあという印象を受けた。照明やら演出の構成やらがチャラチャラしていて、役者が演じるという意味では可愛そう。それこそ勘三郎さんのような強烈な才能でもなければ太刀打ちできないのかも。


因みに、いろいろ書きましたが、久しぶりの舞台観劇なので、当然楽しみまくったのは言うまでもない。書くとこうなっちゃうだけ。すいません。今回の舞台の白眉は、仲村トオルさんの大胸筋の仕上がり具合でしょう。美しかった♪(おわり)