週末後記。「伝統文化と試験とライブ」 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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今週末は試験の予定が入っていたので県内からは出ずに遊んでおりました。土曜は今年で3年連続の参加となる宇都宮文化会館での“能・狂言”鑑賞。この宇都宮能公演は、初めて知りましたが、喜多流、観世流、宝生流、の三流派が順番に公演を行っていたのだそうです。ということで、今年でちょうど一巡したことになります。そういう風に理解すれば、能といっても、様々あるのかもしれないと気付かされます。





2008 宇都宮能「喜多流」(狂言「苞山伏」:野村萬斎/能「八島」:栗谷能夫)


2009 宇都宮能「観世流」(狂言「佐渡狐」:野村萬斎/能「船辨慶」:福王栗茂十郎)


2010 宇都宮能「宝生流」(狂言「舟渡聟」:野村万之介/能「熊野」:殿田謙吉





今年の演目は「熊野」といって、有り体にいえばヒューマンドラマ。病床の母のところに駆けつけたいのにそれを許して貰えない女性の心情を切々と謡いあげていくのですが、最後の見せ場の舞が、事実話しの中でも舞として機能している点でも、今まで観てきた演目と大きく異なります。そういう意味ではリアリズムを感じられるような演目で、内容も、ヒロインが母のもとに帰りたいと願い出るも却下され、花見に連れ出され、籠の中から京都の街をしょぼりんと眺めながら花見会場へ行き、花見会場で舞ってくれと言われて、ヒロインが舞い、その舞いを見てとうとう野暮天は心打たれて、母のもとへ帰すことを許すというお話し。





この能の凄いところは、動きらしい動きが最後の花見会場での舞以外まったくないところ。では何でヒロインの心情を聞き手に伝えるのかと、そこで登場するのが歌なのである。いやもうずっと謡うのである。“熊野”の大半で主人公たちは舞台上で静止しており、屋敷から花見会場へ移動しているという設定の間は、ずっと移り行く京都の風景が謡われ続けるのである。その風景を見て思うヒロインの心の動きが、最後の舞に終着していくのです。つまりは主役が歌。おいらは、能にこういう設定があるということをまったく知りませんでした。ちょっとした驚きです。





いままでは、喜多流で鑑賞した“八島”のような義経の亡霊がでてきて、強い無念を舞うようなリンチ的なものや、観世流で鑑賞した“船辨慶”のような前半は愛のドラマで、後半はバトル(舞)、さらには狂言方まで出演させて笑いの要素まで含ませるといったエンターテインメント系作品を見てきましたが、共通点に亡霊などによる強い感情を舞で表現するというのがありました。その見せ場に向けて作品があるという印象。しかし、今回は最後まで動きでなく歌で感情を表現していました。能は見ていてもまだまだ面白いとは感じられませんが(狂言は見ていて楽しいですけどね)、なかなか奥深いものだなと思ったとか思わなかったとか。





因みに、演目はどの流派しかやらないということはないそうです。どの演目も色々な流派が演じています。ただ年に一度のこの宇都宮能公演について調べてみれば、それぞれの流派が得意な演目を演じているのだなと感じますね。例えば、今年の“宝生流”は“謡宝生”と呼ばれているほど謡うことを得意としているんだそうな。さもありなん。