(後編)独白。年越しそばを打つための悪戦苦闘 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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さておき、不格好な蕎麦ばかり食べている中、おいらの息抜きといえば、余った蕎麦の切れ端を利用して作るまかない料理。蕎麦は蕎麦状にしなくても味わう分にはまったく問題ないことを打ち始めてから知った。こういうほうが贅沢な蕎麦料理とも言えるんじゃないか。


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また、世界には様々な蕎麦料理があることも知って、試したりしていた。例えば、世界にはスープに蕎麦粉を溶いて作る蕎麦スープのような料理があったりする。それを応用して、トマトスープに蕎麦粉を溶いて一品作ったりもしてみた。ちゃんと盛りつければ上のような写真になるけど、下の写真のように蕎麦粉を極限まで溶いたもののほうが熱々のとろとろで美味かったりする。トマトと蕎麦の甘みの相性はいいね。


閑話休題。おいらの蕎麦打ちは一度白紙に戻された。蕎麦打ちに人のレシピはあてにはならない。そもそも基本書の巻末の蕎麦の打ち方と蕎麦道具についていた蕎麦の打ち方は、真逆のことが書いてあったりする。基本書には手のひら全体を使って練るとあるが、道具に付いていたのには、手のひらを使ってはならないとある。ようは人それぞれの蕎麦があって、どれが正しいということもなく、それを真似ることはその思想を真似ることになるんだろう。


一思案。一応人の正解に触れるという手もある。蕎麦打ち体験にでも申し込んで、正解を自分の目で見て手で触って、年末に間に合わせるという方法論。人もそれを薦めてくれるけど、どうもおいらはそういうことが性に合わない。第一障壁の突破は自分の頭でやりたいのだ。おいらは結果を求めているのではなく、常に過程を楽しみたいのだ。ファーストディスカバリーを味わう瞬間を放棄したら、なんのための人生なんだ。それに蕎麦打ち体験に参加して触れられる正解も種々様々な蕎麦思想の一つでしかないのではないか。最初に一つの正解を見せられたら、それに飛びつきたくなる。それはないにしてもそちらよりに流される危険がある。それはおいらの蕎麦を打つという正解ではない。


取り敢えず、蕎麦を蕎麦として考えないことにしよう。映画作りにでも置き換えればいい。事をなすのに必要なのは描きたい結末と主題、そしてプロットだ。蕎麦打ちにも同じことが言えるはずである。おいらは脚本を書くことにした。物事はあれがああだから、これがこうという風に、すべてが数珠繋ぎになっていて、蕎麦も結果と原因の連環の輪の中からは抜け出せないはずだ。おいらは結末から逆算逆算してプロットを書いた。結果出たおいらの蕎麦打ちは、「蕎麦を捏ねてはならない」という新常識である。というか、じつはおいらは蕎麦を捏ねて作るべきだという常識があるかもまだ知らない。けれど、おいらの中に蕎麦は捏ねる力仕事であるような印象があったのは間違いがない。しかし、どうやらおいらが望む蕎麦を生み出すには捏ねてはいけなかったようだ。


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そしておいらのプロットから生み出された第一子は、やっと蕎麦らしくつながりをみせてくれた。角出しも真四角まで後一歩というところまで形をなし、いままでのすべてが一転した。おいらは大晦日ギリギリにして、とうとう蕎麦打ちのスタートラインに立てたのではないか。まだまだはっきり言える。これは人に食わせられるような蕎麦じゃない。けれど、手打ちそばの延長線上にある大失敗作は打つことができたような気がしている。


兎にも角にも、靄の中は抜け出せた。12月中はずっと風邪気味で大変だったけれど、ありゃ知恵熱だったんじゃないだろうか。写真に映っているのは葛根湯Ⅱである。(おわり)


-蛇足-

手打ち蕎麦チャレンジはすぐに食事でなく作業となってしまったため、すべてにおいておいらが打った蕎麦はシンクで洗ったまま立ち食いする流れになりました。画像がお見苦しい点多々ありますが、御容赦のほどを。