伍.帰ってきた東京荒川市民マラソン。「生きているかぎり」 | 栃木県宇都宮市で攀じるパパクライマー

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人の親になっても頂きを目指し、家族と共に攀じり続けるパパクライマーの記録

(昨日のつづき)脳内では「めぐりあい」がかかっていた。25㎞~30㎞区間、右股関節と左足首の激痛を棚上げし、出来うる限りのスピードで駆けていたおいら。残り300m30㎞地点というあたりで、「ボキッ」という音とともに股関節が外れたのである。「ぐわし」転倒だけは免れたものの、前につんのめる。両膝に手をつき、呼吸を整える。あれ?呼吸を整える必要はない。タイムと睨めっこしていたから気付かなかったが、心肺に疲労の形跡がみられない。今日は絶好調である。“サブフォー”は厳しいと考えていたけれど、この心肺なら、“サブフォー”にむけてあと10㎞走りきれないことはない。股関節が外れたと錯覚したほどのボキッ音も、なにこうやって立っているのだから外れているわけもなし、さあ行かなければ・・・ん?足が動かない。右腿が前に持ち上がらないのである。左足は前に出せ・・・「ドギィイン」ぐはっ、、tつ


立ち止まったらお終いというマラソンの原則が脳裏を過ぎる。いままで有無を言わさず膝を回転させてごまかしてきた左足首の痛みが、止まったことを機に増殖していく。左足を地面に接地するとほとばしるシャウト(激痛)といったら!! あぎゃっんす! いっ痛過ぎる! そろりそろりと踏み出しても同じ。あぎゃっんす!左足は依然前に持ち上がらない。取り敢えず、目と鼻の先にある30㎞地点は通過して計測しておきたい。腕時計のストップウォッチ機能を一時停止しよう。いや意味がない。停止ボタン押しても意味がないんだ。考えろ。足が動かないなら動かないでいいけど、兎に角30㎞地点通過してからにしなければ。考えろ。


・・・・・・・・・・ぽくぽくぽく

・・・・・・・・・・ぽくぽくぽくちーん!


蟹歩きならどうだ。前に出ない右足なら横に出してしまえば、、、、、おお、出た(笑)。この状況で得られた答えがとんちか。冗談じゃないよまったく(痛むの変わらず)。ともあれ、左足首の接地の激痛さえ耐えれば、30㎞にたどり着けるぞ。いくぜ蟹歩き。チュうち心(あれ?)羞恥心ね。羞恥心もへったくれもなく、わーぎゃー泣きながら30㎞地点まで向かう。


30㎞地点到達。“2時間4938秒”(つまり25~30㎞ー2936秒)


ああダメだったか。“サブフォー”のリミットである2時間47分以内はとうに過ぎてしまっていた。でもそれどころではない。もはや、たま一歩も動けずである。コース脇によけて、様々な部位を一通り屈伸してみる。あがががっいぎぎぎいっ、ぎいgぃえぎ、がgだgだあが。おお、流石屈伸すると一応右足も前に出るようにはなった(激痛と共に)。でも、今となっては前に出なかった右足よりも、痛みの固まりとなった左足首のほうが問題だ。蟹歩きで無理したことが、さらなる悪化を招いたのである。そして屈伸していた先ほどやっと気付けたのだけど、おいらの両の足裏は、ベロベロのズルズルになってしまっている!! 足の裏が熱をもって今にも発火しそうなほどに訴えかけている。おいらの両の足裏はケロイド上になるまで、たぶん皮が向けてしまっている!ぁああぁあっ、ああぁぁっぁぁ。足の裏が、ああ、、


人間は不思議なものだ。これほどの重傷を今し方まで感じていなかったなんて。結局、人間というのはよくできているわけだ。何をするにしても必要のない感覚はスイッチをオフにしているのである。人体の仕組みを理解した人間こそが勝者になれる。ここでおいらが理解しなければならないことはなんだろうか。人間は痛みを忘れられるということだし、また耐えられるということか。なんでも気の持ちようなのだからっ!


苦痛に顔がゆがむ。なんのために前へ進むのか。リタイアする気ははなっからなかった。びっこひきながら前へ。今となってはタイムのことなど頭になくなっていた。もはや関係がない。だってこの痛さ! 昨年も痛みについて書いたけど、今回はその比ではない。一歩一歩が致命傷なのである。それでも純粋なる徒歩にしたくない。名付けるならびっこ走りである。いて、いて、いて、いて、いてて、声が出ちゃう。ぴょこたん、ぴょこたん、前に進む。すると視界の片隅に何時もは気にもとめない光景が飛び込んでくる。なんだろうこの感覚は。おいらになにかを訴えかけてきているような光景。むむむ、む、そうか!その手があったかっ!


マラソン大会というのは、コース沿いに応援してくれる方々が菓子類などのお盆を持って提供してくれたりしているのですが、コース終盤に入ると、冷却スプレーなどを提供してくれる応援の方々もいるのだ。まさに羽の生えていないエンジェル。いままでは痛くても冷却スプレーに頼るなどといった発想はわかなかった。でも、いまやリタイア寸前である。頼るしかない。「すいません、いいですか。ありがとうございます。(シュシュー、シュシュシュー、シュシュシュー、シュシュシュー)はい、はい、頑張ります。ありがとうございました」気持ち痛みが弱った気がする。気だけである。気だけだけど、それが全て。このちょっとの気の違いでやれるんだ。そんなもんなんだ。激痛継続中ながら、ぴょこたん走りにも力が入った。


35㎞地点到達。“3時間2627秒”(つまり30~35㎞ー3649秒)


「うはっだいぶ遅れてしてまった。完全に“サブフォー”の姿は見えなくなったな」などといったことは考えてなかった。この時おいらは通過タイムなど見もしなかった。どうでもいい。痛い。痛い。痛い。痛い。35㎞地点を通過して。立ち止まったおいら。もうダメだ。一歩も足が前にでない。いやさ出る。出るけど死ぬほどの痛みが。死ぬほどの痛みというのは「ぎゃあああ」という痛みである。例えるならば天ぷら油が煮えたぎる鍋を人に投げつけられて、全身に天ぷら油を浴びてしまったような「ぎゃあああ」である。とほほ。苦痛で泣きたいとはまさにこのことだね。今日のおいらは無駄に頑張りすぎた。さっきの5㎞を徒歩にすればこのようなことになりようはずもなかったのだ。おいらは既にリミットをオーバーしている痛みを抱えながらも、ぴょこたんぴょこたんと前進を続けてしまった。それがいけなかった。それがいけなかった。だって、物の見事に足がもう動かないんだから! コース脇で立ち止まって途方にくれる。


こっこく、本日の悲劇は、心肺と足腰の成熟度のずれが生みだしたものにほかならない。走り込み不足で足腰はできていないのに、心肺だけは完成していた。いやさ違う。心肺も完成していなかった。にもかかわらず、なぜ、この日のおいらはこれほど絶好調だったのか。やる気でみなぎっていたのか。おいらは知っている。それは書きたくない。書きたくないが、書くほかない。それとは、おいらが本年初めて7時間も睡眠をとってしまったことに他ならないだろう。よく考えると河口湖フルマラソンの時もよく睡眠をとったおかげで絶好調であった。マラソンの気力は睡眠と直結しているのかもしれない。いやさ、この世のあらゆる人の営みに睡眠は直結しているのだ。わかっていたのだ。でも否定したかった。なにせ、毎日3時までは寝ないと決めていきているおいらなのだから。


涙一粒、ぽろぽろ~、


沿道で応援してくれる人に冷却スプレーを借りて吹きかけても、もはや気も沸き上がらない。一歩も動けなくなったおいら途方にくれるほかない。数分休んでみる。足は動かなかった。そうなんだ。悲鳴をあげているのは心肺じゃない。ただぼうと休んでいても回復はしない。答えは簡単だ。屈伸柔軟をする以外に道はない。とにかく念入りやる。やればやったで数㎝単位だが足が前にでる。左は比木頭屡るようなかっこうだが、前進でkりうう。ごめんよ、らlらあ・・・おいらにはまだ帰れるところがあるんだ・・


少し進んでは足が固まり動けなくなる。それを柔軟で解きほぐすということの繰り返し。進むのも激痛なら柔軟するのも激痛という状態まできていた。この時ほど痛みに対する耐性が備わっていたことを喜んだことはない。おいらを構成している要素の大部分は“忍耐”からできているだの。足を引きずりながらでもとぼとぼと前に進む。その時おいらの小脳の片隅の部署のぺいぺいがあることに気付いた。


「係長!」


「なんだい、山田くん」


「現状、上からの報告によると、死にたいほどの激痛がするから、足をひきずるような状態にまで運動レベルを落としているということでしたね」


「うむ、そうである」


「足引きずっていても死にたいほどの激痛がするなら、それもう痛みの天井まで達してしまっているのではないでしょうか」


「つまりなんだね」


「ようするに、とぼとぼ一歩数㎝移動するだけのために、1度の激痛を味わうなら、もう取り敢えず普通のランニングの状態に戻してしまって、1度の激痛で距離稼いだほうが、相対的にみて痛みの量は減るのではないでしょうか」


「ふむ、しかしそれは非情な選択だね。下手したらこの宿主に未来はないよ」


「わかっています。でもこの宿主は死に体です。やるしかありません」


脳内のやり取りを聞いていたおいらは、冷笑。そもそも足が持ち上がるわけないじゃないか。普通のランニングができるならやってるっつうの。まあ一応試してやるけどね。どれどれ・・・ほらみたことかやはり持ち上がらない・・・いや待てよ。しかし!


おいらはそこで気付いた。足を引きずって一歩数㎝移動する痛みも足をできる範囲前に出して少しでも距離を稼ごうとしたときの痛みももはや痛みに違いがなくなっていることに。なるほど。何故おいらが足を引きずっているのかと言えば、それは出来る限り痛みを少なくしたいという防衛本能からであった。が、もはやその足を引きずるという防衛行動がなんの痛みの軽減ももたらしていないのなら、そんな遅々とした行いは無意味ではないか。同じ苦痛を伴うのなら、少しでも距離を稼いだほうがいい。(つづく)