保坂正康著「秩父宮」 | 2.26事件を語ろう

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226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

秩父宮―昭和天皇弟宮の生涯 (中公文庫)/保阪 正康

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銀のボンボニエール―親王の妃として (講談社プラスアルファ文庫)/秩父宮 勢津子

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 この本は最初は図書館で借りたのです。が、あまりに面白くて、アマゾンで買いました。ぶ厚いけど、いっきに読みしてから、繰り返し読んでいます。

 「スポーツの宮様」と呼ばれた秩父宮殿下は、昭和天皇の弟。さらに弟の高松宮殿下もいて、昭和天皇は相撲が大好きで、侍従長の鈴木貫太郎と毎日のように相撲をとって育ちました。
 秩父宮と高松宮も最初はいっしょでしたが、格闘技が好きではなく、スキーやスケートに昏倒していきます。
 
 この時代はまだ乳幼児たちが短命で、明治天皇の子供たちにしても15人のうち、成人した男子は一人だけでした。その大正天皇も病弱だったので、宮内庁は3人の皇子たちを丈夫にするため、それは神経をとがらせ、粗食と運動を奨励していたのです。(とはいえ、スポーツの話題になると、歴史的にはどうでもいいのか、たいていの昭和史本ではしょられています。)昭和天皇は戦後になるまで、あつあつの天ぷらや刺身は食したことがありませんでした。

 昭和天皇は陸軍と海軍両方の大元帥、秩父宮も高松宮も海軍に憧れましたが、偏るのは問題があるとされ、秩父宮は陸軍へ。麹町の秩父宮邸の3階はローラスケート場になっていて、冬になって青山御所に氷がはると、西園寺公共や竹田宮もよびだされ、イギリスじこみのコンパルソリを習いました。

 「高松宮日記」を読むと江田島の海軍兵学校にいながら、高松宮が神戸の六甲山に氷がはるのを楽しみにしている描写があります。

 スポーツやジャズという共通の趣味があったので、高松宮も秩父宮も来栖家とも交流がありました。(これは本には書かれていません)
 
 保坂正康氏は秩父宮の幼少期のエピソードや陸軍でのできごとは関係者から細かく話を聞いていて、中でも安藤輝三と共に親しかった森田利八の取材は感動ものです。83歳になった森田は涙ながらに安藤や2.26事件のことをふりかえり、ちり紙に走り書きされた安藤の遺書を見せてくれます。

「森田大尉殿
 
 お先へ失礼します。
 但し万斛の恨を呑んで。
 殿下に宜シクオ伝ヘヲオ願ヒ申シ上ゲマス

 昭和十一年七月十一日夜
 安藤輝三」
 
 7月11日の夜といえば、銃殺刑の前の夜です。
 安藤は軍事裁判では決して秩父宮のことを口にしなかったし、銃殺刑の直前「秩父宮殿下、万歳」を叫んだという説を否定する声もあります。森田もその一人です。
 いじらしいほど気を使い、2.26事件の前から秩父宮と距離をおくようにしたのが、安藤だったというのが主な理由です。

 ただし、森田は死刑に立ち会ったわけではなく、実際に銃を撃ち、合図の旗をおろした人間が2人、安藤は「秩父宮殿下、万歳」を叫んだことを証言しています。磯部浅一の獄中記にも書かれています。

 5.15事件の日、秩父宮は神宮外苑で宮内庁の職人たちと、朝から野球に興じていました。
 秩父宮は5.15事件の首謀者たちに共鳴し、昭和天皇に叱られたというのが「木戸日記」などで明らかになっています。

 2.26事件になるともっと複雑です。弘前でびっしりと演習スケジュールを組み、2月22日に百数十人の下士官を率いて、山中訓練であわや八甲田山という事件を引き起こしている秩父宮が2月26日未明の事件を前もって知っていた可能性は低いでしょう。
河野や磯部の来訪を受け、迷い、悩んでいた安藤が決断したのが、まさにこの22日なのです。
 安藤の家には電話はなく、憲兵隊の尾行がつき、手紙もこっそり開封されていた状態で、秩父宮と連絡がとれるわけがありません。
 それになんといっても、親代わりだった鈴木貫太郎に瀕死の重傷を負わせたのは、安藤部隊なのです。鈴木の妻は秩父宮にとって母親代わりだった、たか夫人です。
 秩父宮が賛同し、賞賛するわけがありません。

 むしろ謎なのは2.26事件より、ヒットラーとの会談のくだりです。イギリス大使だった吉田茂の助言もあり、秩父宮はドイツでヒットラーとあい、スターリンを目の前で冒涜したときも賛同はせず、決して友好的ではなかったとのことです。
 この本にも秩父宮はヒットラーを信用していなかった、皇室は親英米よりだったと、何度も書かれているのです。

 が、「昭和天皇独白録」によると日独伊三国同盟に昭和天皇は反対で、秩父宮は週に3度お参内して締結を勧めたが「この問題については直接宮には答えぬ」と突っぱねられているのです。

 陸軍の親ドイツ派と松岡洋祐が強引に三国同盟をすすめたのですから、陸軍の秩父宮が三国同盟派だったのは当然なのかもしれませんが。どうしてヒットラーと手を組みたかったのか、この本では三国同盟にふれていないので、ちぐはぐな印象を受けます。

 秩父宮の妻、勢津子夫人は大使の娘で、幼少期をイギリスやワシントンですごし、日本語より英語のほうが得意でした。グルー大使夫妻とも親しく、アメリカ大使館でしょっちゅう映画やジャズのレコードを楽しんだ秩父宮に、アメリカをはじめ世界を敵にまわすという、三国同盟の危険性が理解できなかったわけがないのですが。

 あの「昭和天皇独白録」は1991年12月の「文藝春秋」で発表され、それはもう昭和史をひっくり返すような発見だったわけです。聞き書きしたのは来栖三郎と真珠湾の直前まで志を共にした寺崎英成でした。

 ヒットラーとも会見したヨーロッパ旅行の頃から、秩父宮は咳こむようになり、大戦中はほとんど結核の療養ですごすことになります。

 磯部の獄中記にしても「秩父宮の令旨について」の部分は欠損しています。

 これまでもう出尽くした、と言われながらも、ときどき出てきた2.26事件に関する書物。意外なところから、どーんとまた出てきたら謎がとけるかもしれません。