燃える外交官 来栖三郎物語26 | 2.26事件を語ろう

2.26事件を語ろう

226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

 初日の段階で、三郎も察知した。大統領もハルも「ドイツ」や「ヒトラー」の話になると、とたんに顔がけわしくなり、憎しみの光を目に宿らせたのである。
そのドイツと三国同盟で調印したのは来栖三郎その人なのだった。人選ミスといわれても仕方ない。
 とはいえ、あの時点では来栖三郎以外、いったい誰がワシントンに乗り込み、ハルやルーズベルト大統領と話し合えたというのだろうか。三郎は東郷外相に、
「私よりもっと適任者がいるでしょう」
 と言ったとき、重光葵の名前が頭をかすめた。
「来栖くん。軍用機とクリッパー機を乗り継いで、ワシントンに飛ぶ旅は過酷な日程になる。きみでないと無理なんだ」
 というのが東郷外相をはじめ、外務省関係者の一致した意見であった。
 たしかに重光は上海のテロで、義足は10キロという重さで、当時はまだ今のような車椅子が発明されていなかった。
 加瀬俊一では若すぎたし、松岡前外相の秘書としてイタリア、ドイツ、ソ連から凱旋して間もなかった。
 前総理大臣の近衛文麿は入院中で、ゾルゲ事件の捜査も病院で受けたほどだ。

 11月18日。ハル国務長官室で、話し合いが再開された。
「私と野村大使では何度も同じ話を繰り返し、どうかすると同じところを堂々巡りする感があるから、来栖大使が新しい角度から見たところを承りたい」
 そう語るハルとの交渉には、とんだ裏があった。
戦後の極東国際軍事裁判で明らかにされ、三郎をはじめ外務省関係者は唖然とさせられるのだが、このときすでにアメリカ側は日本の暗号を傍受して、野村と来栖の提案はすべて先に読まれていた。
 彼らはそれに「マジック」という愛称をつけ、絶対的な自信をもっていた。がしかし、肝心の翻訳は完璧にはほど遠いもので、決定的な多数のミスが目につく。
 たとえば、11月4日に届いた東郷外務大臣から野村大使あての電信を傍受して、暗号を解読したまではいい。英語に直すとき微妙なニュアンスが間違っているのだ。
 「熟議ノ結果交渉ヲ継続スル」とあるのを、アメリカ政府側の通訳者は「gamble once more on the continuance of the parleys.(交渉の継続上において、もう一度ギャンブルしてみる)」という英語にしている。
 ずいぶんキャンブル好きな通訳者だったのか、「皇国ノ安危ニ係ワル」というくだりも、「we gambled the fate of our land on the throw of this die.(われわれは自国の運命をこのサイコロ一振りに賭ける)」という英訳になっていて、日本のほうは「ギャンブル」だの「賭け」だのいった言葉は使っていないのに、英語だけ読むとずいぶん軽いふざけた印象をあたえる誇張と誤訳だ。
 「内大臣」を海軍大将の「米内」と勘違いしているのは、「内」という漢字があったせいだろうか。
 「御前会議」をmorning meetingと訳したのは、おそらく「御前」を「午前」ととってしまったためなのだろう。
 もっと確信にせまった部分にも間違いがいくつか発見された。
 たとえば、「米国ガ不確定期間ヘノワガ軍ノ駐兵ニ強ク反対スルニ鑑ミ駐兵地域及期間ヲ示シ以テ其ノ疑惑を解カントスルオノナリ」という一文も、「In view of the fact that the United States is so much opposed to our stationining soldiers in underfined areas, our purpose is to shift the regions of occupation and our officials, thus attempting to dispel their suspicions.(アメリカが不確定地域への我が軍の駐兵に強く反対している事実を考慮し、わが目的は占領地域と将校を他に移動させて、アメリカの誤解を解こうするものだ)
「不確定期間」を「不確定地域」になぜか変えられて、「駐兵たちの地域と期間を示して(アメリカの)誤解をとく」というくだりが、「駐兵たちの地域を官吏のほうへ移動させて(アメリカの)誤解をとく」と誤訳されてしまった。
 戦後、これを知らされたとき、三郎の失望は大きかった。東郷も東郷の元で外務次官を勤めていた西春彦も、大きなショックを受けてその晩は眠れなかった。
 こんな間違った情報が前もってハルと大統領の頭に刻み込まれていたのか。
 おそらく日本で教育を受けた経験をもたないアメリカ生まれの日系人がたどたどしい知識を寄せ集め、頭から血が出る思いで作り上げた翻訳に違いない。
 三郎の子たちも日本語の読み書きには苦労していた。8歳から日本で育った良は別格として、ジェイやピアは漢字が読めず、ひらがなを書かせても、「あ」と「お」がすぐに混乱してしまう。
 その情景が目に浮かぶような思いがして、もはや怒りも憎しみは湧いてこなかった。
(つづく)