十九の春 | 2.26事件を語ろう

2.26事件を語ろう

226おたく、フィギュアスケートおたくなので、手持ちの書類や証言を整理して公開しておきます。ここでは小説のような作り話ではなく、ノンフィクションのような事実だけを書いておこうと思います。

紅白歌合戦を見るわけないので、たらたらと書かせていただきます。3月の確定申告あたりまでは予定がびっしりなので、正月どころではなく、現実逃避したい気分です。

 会場となるNHKホールは何度か行ったことがあります。あの駐車場あたりで2.26事件の青年将校たちが銃殺になった・・・なんて大みそかも考えているのは私だけでしょうか。

 先日、急に夫が「ばたやん」こと田端義夫のことを「ギターネックをさげて弾くんだよな」と話しはじめるので、びっくりしてしまいました。もちろん世代は違います。が、彼の父親がギター好きで、バタやんの真似をよくしていたそうです。

 それを聞いたとき、昭和史おたくの私は、田端義夫さんに会って話してみたかったな・・・なんて感じてしまいました。ずっと昔、「週刊明星」という雑誌で仕事していたとき(もちろんスポーツ担当ですが)、いろいろ芸能人に会う機会があったのです。
 
 田端さんはトラコーマで片目の視力を失っていたので徴兵免除。軍の意向にあった歌で、戦前から大変な人気で、戦争中もあちこち慰問の演奏旅行に呼ばれていました。
 紅白歌合戦がラジオではじまった昭和20年代、あちこちに巡業中で出演機会がありませんでした。初出場は1935年、東京オリンピックの前年で、意外と遅いのです。

 1919年1月1日生まれ。田端さんは三重県で生まれ、3歳で父親をなくし、家族で大阪に引っ越します。

 同じ年の1月8日生まれが、来栖三郎の長男、来栖良。米国シカゴで生まれています。

 この来栖良が「十九の春」という曲が好きで、福生の飛行機基地にいたとき、事務員の女性に「歌詞を知っていたら書いてくれ」と頼んでいるのです。

 「十九の春」は田端義夫が歌謡曲として有名にしました。でも、もともとは九州の炭鉱や沖縄で歌われ、人気があったので作者は不明とされています。民謡に近いけど、明治の終わりから歌われていたようです。

 田端さんをインタビューする機会があったら、いつどこで「十九の春」を知ったのか、満州を慰問する生活はどんなだったのか、聞いてみたかったです。

 NHKの連ドラ「ちゅらさん」で堺正章が唄っていたとか。残念。これも見ていません。鮎川誠さんも出演していたそうです。

 昭和ってどんどん遠のいていきますね。

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