ちょんまげが見当たらない。30分ばかり探しているのに見つからない。
午前9時の出発に向けて身支度は整ったが、自慢のヘアスタイルが決まらない。
最後にちょんまげを見た記憶をたどる。前夜、村の女の子にかぶせたことを思い出した。
そういえば、返してもらっていないようだ。すっかり貸したことを忘れていた。
まさかヅラをかぶったまま帰るとは。誤算だった。スタート時間が迫り、女の子を探している時間はない。
ポルトガル語を話せるスタッフに、ちょんまげの受け渡しをお願いして、後ろ髪をひかれながら出発した。
走るには、ゴム製のカツラがない方が快適だ。
何といっても、蒸れない。これに尽きる。
熱がこもることも、隙間から流れ落ちてくる汗をひっきりなしに拭う必要もない。
チェックポイントでは、ざんばら頭のままでもスタッフが「サムライ」と僕を呼ぶ。
ニックネームとして、すっかり定着していた。
返ってこなくても何ら困らないではないか。いっそ異国の地で大切にかぶってもらおう。
前日にキャンプ地でサッカーをしすぎたせいか、消えたちょんまげの呪いか、起きがけから右膝に違和感があった。
気にしないようにしていたが、第1チェックポイントを過ぎ、坂を越えるたびに痛み出してきた。
急な下りが特にきつい。踏ん張ろうとすると激痛が走り、膝の曲げ伸ばしがろくにできない。痛み方からすると筋肉の炎症のようだ。
単なる平地なら問題ないが、ちょっと困ったことになった。
前方の小川に1本の丸太。橋の代わりに架かっていた。
長さは10㍍以上で、両腕で抱えても足りないくらいの太さがある。2、3人が乗ってもびくともしない大きさだ。
全身でバランスを取って丸太に乗る。10㌔の荷物を背負っていると、進むのが意外と難しい。膝の状態が万全でも楽ではなさそう。左足を踏み出すと、体重の乗った右膝が痛み、千鳥足の酔っ払いのようにふらつく。そのたびに両腕をばたつかせて堪える。ほとんど曲芸に近い。マラソンとはこうもバランス感覚が必要なのか。
丸太の上から川をのぞく。珍しく澄んだ水で、底が見える。足は着きそうだが、落下すると柔らかい川底にはまりそうだ。いっそ初めから川を泳いだ方が楽だった。後悔しつつも慎重に足を運ぶ。平地が恋しい。
丸太を渡ると、苦手の沼地が待ち構えていた。
恐る恐る足を伏見入れる。昨日にまして深い。膝上まで泥の中にめり込む。足を抜こうとしてバランスが崩れた。両手をぬかるんだ地面についてしまい、四つんばいになる。枯葉と小枝の混ざった泥が目の前に来た。
地表をうごめく小さな物体。アリの行進だ。日本で見かけるよりも一回り大きい。
いったん目につくと、腕の周にもいることに気づく。腕をつたって上ってきそうだ。ひ、ひぃーーー!
必死に上体を起こそうとするが、背中が重い。背中に馴染んでいたはずのバックパックが、ひどく重い。
右のわき腹がちくりと痛み、Tシャツをまくりあげる。
アリだ。手で払っても食らい付いて離れようとはしない。むう、手強いぜ、ジャングルアリ。
左側も噛まれる。それを合図に右から左から攻撃される。
敵はゲリラ集団だ。ハチほどの痛みではないが、同時多発的な襲撃は想定外。転げまわりたいが、そんなことをしたら余計にたかられる。そもそも泥の中だ。
だ、だ、だめだ、冷静さを欠いている。
沼の片隅でアリとひっそり格闘。平手で思い切り振りかぶり、素肌に叩き付ける。何度も何度も繰り返す。脚を動き回るアリにも情けはかけない。ぶんぶん、ぶんぶんと手を振る。一心不乱。
最後の1匹をはたき落したときには、なぜか達成感すら込み上げてきた。その間、1歩も進んでいないのだが。
一息つき、この1日半の出来事を振り返る。アップダウンや川泳ぎはまだしも、丸太渡りに、虫の襲来。まともに走れやしない。
「こんなのマラソンじゃねえ。責任者出て来い」
独り言と分かっていても叫んでしまう。
文句のひとつもいいたいが、主催者がいるのはゴール地点。一言いうまでへばっているヒマはない。
行き場のない苛立ちを推進力に変えて泥をかき分ける。ひとしきりもがき続け、固い地面を踏みしめるころには平静を取り戻せた。やはりストレス解消は運動に限る。
沼を脱出後は起伏が少なくなった。
代わりに、すねまではまりそうな穴が平地にぽっかり開いている。そして転々と穴が続いている。
転倒を誘う木の根と並んで、ジャングルの二大トラップだ。
足元に注意していればまたいでかわせるが、何の穴なのか見当がつかない。人力で掘るには数が多すぎる。
空き時間に、地元出身のスタッフに穴の謎を聞いてみた。
野生動物が掘った説を唱えるスタッフ。しかし、首をかしげ自信なさげだ。結局、正体はわからないまま。謎の穴は深さ以上に奥が深い。
とはいえ、穴に気を付けてさえいれば、まともに走ることができる。途中で飲んだ鎮痛剤が効き、膝の痛みが収まり、ようやくマラソンらしくなってきた。
なだらかな林道を止まることなく駆け抜ける。練習通り自分のペースで走っているだけなのに、楽しくてたまらない。鎮痛剤の副作用なのか。そんなことはないか。
今まではチャックポイントで休憩しなければならず、ストレスになっていたのかもしれない。今日からは、ゴールまで思う存分に走り回れる。
降り積もった落ち葉から固く乾いた土に変わり、ジャングルを抜けた。
コースマップによると、ここからゴールまでの数kmは、タパジョス川沿いの集落を通過することになる。
強い日差しをさえぎっていた木々が消え、肌が焼けるように熱い。
一気に体温が上がり、息が荒くなる。だらだらと流れ出る汗と反比例して体力が奪われていく。
そんな炎天下に村の人たちが外でランナーを待ち構えていた。幼児を抱いた母親が拍手を送り、裸足の子どもたちは一生懸命に並走しようとする。言葉は通じなくとも、温かな応援で気持ちに張りが出る。
総出で手を振る一家に笑顔で応える。母親が出てきてジェスチャーで記念撮影したいと足を止められ、7人の子どもたちとカメラに収まる。
日本では考えられないくらい子沢山な家が多い。
水を飲むよう勧めてくれたが、飲食物をもらってはいけないというルールを思い出して、手に取るのをためらう。無視してしまえばいいのだけど、失格になったらどうしようと悩む。
もらわないのも失礼と思い、結局はコップの水を頭に掛けてもらった。
頭を冷やし、善意にまごつく小心者な自分に反省。
村の一角に突然ゴールが現われた。なんだか距離が短すぎないかと不審に思いながらもフィニッシュ。そういえばこの日は5㌔が短縮されていたのだ。
走っているうちに頭から抜けていた。忘れっぽい性分はどうしようもないが、うれしい勘違いだった。
順位は初の一けた台で6位だった。呪いだ、たたりだと思っていたが、ちょんまげがなくなった途端の大躍進。余力を残さず走り切ることだけを考えていたのがよかったのかもしれない。