森を抜けると、幅100㍍の川渡りが待っていた。
両岸から1本のロープが川に張られている。つかまって渡ることができ、一応は安全が確保されている。水が濁っていて底が見えない。
濁って分からないのをいいことに、水中の危険には目をつむる。得体のしれない生物がいても見えなければ、いないのと同じだ。そう信じたい。
荷物を濡らさないように、ゴミ袋にバックパックを入れて口を縛る。
他の選手は防水仕様のバッグ。なんだろう、ゴミ袋も文明の利器のはずなのに、前時代的な、残念な気持ちにさせられる……。
隣にいた韓国人のインテリ大学生J・Jが困り顔。ドライバッグのサイズが小さくて、バックパックを収納できなかった。必死の形相で無理やり入れようとする。野菜詰め放題に挑む主婦のごとき真剣な表情で何度も押し込み、そのたびにはじき返されている。荷物とドライバッグのサイズが、明らかに合っていないのだ。
ドライバッグの伸縮性に限界を感じたのか、J・Jは狼狽しながらスタッフに相談。
それまで爽やかな笑顔を振りまいていたJ・Jも、さすがに切羽詰まった表情だ。バッグ問題に加えて事情を説明する中で、新たな事実が明らかに。
泳げないというのだ。
話し合いによって、J・Jは救命胴衣をビート板代わりにして川を渡ることになった。
荷物も救命胴衣に乗せて運ぶ。段取りは整ったものの、不安そうなJ・J。見かねたのかブラジル元軍人のジェイソンが、彼の荷物運びを買って出た。言葉は通じなくとも、ごく自然に荷物を手渡す。その様子は親子のようだ。
2人のやり取りに和んだところで、砂で茶色に汚れた水に足を踏み出した。
10㍍も進まないうちに足元が見えなくなる。胸まで水に浸かったところで泳ぎ出す。
自分のことよりも、最後尾のJ・Jが気になって仕方ない。
顔を水面から出したまま、おっかなびっくりしながら泳いでいる。今にも泣き出しそう。
先頭のジェイソンはわが子を勇気づけるように、川の中でも大声で歌う。
先に渡り終え、水中で四苦八苦するJ・Jを岸から励ます。
J・Jのとなりにはスタッフが並んで泳いでいる。おぼれたときのケアもばっちりだ。
ひきつった顔でゆっくりと進む。なんとか岸にたどり着き、みんなとハイタッチをかわして喜び合う。多少青ざめていたが、いい笑顔だ。
ジャングルに戻って、延々と繰り返されるアップダウンをひとつずつ越えていく。
ゆっくりと、確実に。太陽が傾き始めたころ、ようやく砂浜に用意されたゴールラインを踏むことができた。
タイムは9時間12分。速いのか遅いのかはよく分からない。身も心もくたくた、それでも何とか無事にたどり着いた。明日はどんなコースなのだろう。ハチの襲撃、川、ジャガー……気がかりは山ほどある。
ゴール後は、ハンモックをつるして一休み。
川に入って、体と服にこびりついた砂と汗を洗い流す。
1度でシャワーと洗濯ができて一石二鳥。替えの衣類はTシャツ1枚だけなので、毎日洗って着るローテーションになる。
水面に顔を出して、ゆっくりと流れていく雲を眺める。のんびりとしたひとときはレース後のごほうび。ぼーっとしていると、川に流されかけていた。
あわてて泳いで岸に戻る。走り終えてもジャングルでは、なかなかゆっくりできない。
夕方、スコールに見舞われる。あちこちで聞こえる歓声と悲鳴。ゴールしたばかりの選手は急いで雨よけシートを張り、荷物を避難させる。
洗濯したばかりの衣類を降り注ぐ雨にさらす。
Tシャツを絞ると、茶色に濁った水滴がしたたり落ちる。砂混じりの川の水では、汗は落とせても汚れは落としきれない。
洗濯し直せて満足していたが、天然のシャワーで翌日のコース状況がひどいことになるとは思いもよらなかった。
通り雨は日没に合わせるように、ぴたりと止んだ。静かな夜が訪れた。
主催者のシャーリーから召集をかけられ、翌日のコース説明を受ける。
明日も約30㌔と距離はほとんど同じ。たっぷりの坂道に加えて沼地もあるらしい。
沼ではダニに気をつけるよう注意される。
血を狙って服の下にもぐり込んでくる虫たち。ダニを取りのぞくときに、皮膚に歯が刺さったままだと傷口が化膿するそうだ。肌の上を這いまわるダニを想像して背筋がぞくりとした。
説明が終わり質疑応答に入る。何人かの男たちが詰め寄り、コースがきつすぎると怒りを爆発させた。
「坂は12カ所と伝えられていたのに20以上あった」「こんなのマラソンじゃない」
確かに多かったが、必死だったので坂道を数える余裕などなかった。額に青筋を立てる男たちは、不満を漏らしている割には、余力たっぷりで、うらやましい。文句を言えるなのだから元気十分なのだろう。
英語でまくし立てているので、何を言っているのか聞き取れなくなった。輪の外に出ると、文句を言っているのは男性ばかり。女性陣はわれ関せずと涼しい顔をしていた。国が変われども、女性の方が精神的にタフなのだろう。
言いたいことを吐き出し、男たちが戻っていく。残されたシャーリーは心なしか表情がくもっていた。こちらにやって来て今日のコースはどうだったと聞かれた。
「ハードなコースで楽しかったよ」
右手の親指を立て笑顔をつくる。僕の表情を見てシャーリーが満足そうにうなずいた。男はやせ我慢が大切だ。
初日にも関わらずリタイアは2人。難コースに苦戦して、日没後もゴールする選手がぽつぽつといた。走ってくる選手の姿が見えるたびに、みんなが拍手と声援で出迎える。
「Congratulation」
「Well done」
温かい声がかけられる。ハチの襲撃で倒れたスイスの選手も帰ってきた。ひときわ大きな拍手が送られる。
応急処置用の注射を持参していて、即座に対処したから大事には至らなかったそうだ。
再び教わるかもしれない恐怖心に負けることなく復帰して走り切るとは、驚異的な精神力だ。
残りの日本人4選手も午後9時に無事ゴール。心配そうに夫コウちゃんの帰りを待っていたマルさん。4人を見つけるや、表情が明るくなった。
慌ただしかった初日は、まだ終わらない。スタッフの乗る船が騒がしい。誰かが川で淡水エイに刺され、船上で治療を受けているという。裸でのんきに水浴びしていた川にすら危険が潜んでいる。甲板が煌々と照らされている。ジャングルの夜は静かにふけてはくれない。