「サムライ」
スタート前にニックネームがついた。
初日の集合場所は川のほとり。開始までまだ15分ある。
後ろから来た選手に「サムライ」と何度も呼ばれる。
僕の頭をぽんぽんとなでていく選手もいる。さすがは日本文化の象徴の一つだ。頭にかぶった、ちょんまげのカツラは認知度が高かった。
周りに声をかけてもらい、リラックスした状態でスタートを待つことができた。
一番注目を集めていたのは同じ日本人のチームAHO。僕に声をかけてきたコウちゃんたち4人だ。全員が映画「アバター」のボディスーツを着ている。
記念撮影を求める選手がわらわら群がる。20カ国近から出場する中、仮装したのは日本だけ。それも参加した5選手全員なのだから、他国の選手からすると訳が分からない。
ぼそりと「クレイジー」とつぶやく声も聞こえてきた。
スタート2時間前には起床。たっぷりと時間をかけて支度した。
勝負服は長袖のTシャツ、ロングスパッツと短パン。肌の露出を極力減らした。
蚊が媒介するマラリヤやデング熱をある程度予防できるからだ。
着替える前には、顔や首に虫よけクリームをたっぷりと塗りたくる。
べたつき気持ち悪いが、慣れるしかない。さらに靴擦れや衣擦れを防ぐため、足の指やわきの下などにワセリンを擦りこむ。全身がぬるぬるになった。
仕上げに、日本から持ってきたカツラをかぶる。別に仮装する必要はないが、ひょんなことから用意した。出発前に友人たちと酒を飲んでいると、すっかりできあがった一人が熱弁をふるった。「せっかく地球の真裏に行くのだから日本の魂を見せてこい」
熱弁の割にアイデアは、ちょんまげという安易さ。さらに安直なのは自分自身。完走できるかも怪しいのに、快諾してしまった。酒の力は恐ろしい。酒は飲んでもアホな要求をのむな。そんな教訓と一緒に、高温多湿のジャングルに蒸れるゴム製のちょんまげを持ち込んだ。
号砲が鳴り、乾いた音が響く。近くにいた鳥が驚きながら飛び立つ。ランナー65人も縦に長い列をつくり、スタート地点である白砂の浜辺を後にした。
約30㌔先のゴールを目指す。小川を渡り、いよいよ森の中へ。太陽の光は木々にさえぎられ、午前9時すぎだというのに薄暗い。空を覆う大小の葉の隙間を縫って光の束が落ちてくる。
細い筋となった陽光は敷き詰められた落ち葉に突き刺さる。枯葉を踏み乾いた音を立てながら、どこまでも続きそうな緑の中を行く。
遠くで鳥の鳴き声がする、この先に何が待っているのだろうか。自然と気持ちが高ぶった。
そんな期待に満ちた高揚感は開始10分で消し飛ぶ。縦に長い列が狭い林道を進む。前方が騒がしい。怒声が森の静けさをつんざく。「ビー」と叫ぶ声。ハチへの注意を促す。高いところから襲われるらしく、列の先頭からウェーブのように順にしゃがみこむ。すでに刺されたランナーもいるようだ。僕も低くかがみ、その場でやりすごす。頭上で不気味な羽音が旋回する。
しばらくして何人かが立ち上がった。もう大丈夫だろう。僕も進み始めたが突然、左腕に鋭い痛みが走った。黒光りする塊が目に映る。尻を突き刺すハチ。慌てて振りほどき逃げ出す。来た道を引き返す途中で、さらに攻撃をくらう。顔から首、腹、足まで計8カ所を刺された。患部はきりきりと痛みを増し、熱を帯びてくる。
襲撃を受けた後方の集団から悲鳴が上がる。ひと際大きなざわめきに振り返る。スイスの男性選手がふらりと支えを失ったように倒れこむ。ハチに刺されたアナフィラキシー・ショックが原因だった。彼は迅速な応急処置のおかげで、レースに復帰して完走できた。が、この時点でそんなことを知るはずもなく、次は自分かもしれない、と弱気になる。開始早々、リタイヤしようものなら悔やみきれない。あまりにも攻撃的なハチに、ジャングルの怖さを植えつけられた。
ハチに刺された箇所が痛む。徐々に熱が出てきた。それでも走り続けて最初のチェックポイントに到着。治療してほしいと、たどたどしい英語で伝える。
メディカルスタッフの女性が患部を一目見て「鎮痛剤飲んだ?」と尋ねてきた。
首を横に振ると、「じゃあ大丈夫ね」。
診療が終わってしまい、あっけにとられる。僕の表情を読みとらずに笑顔を見せるスタッフ。無事にこしたことはないけれど、もう少し構ってくれてもいいんじゃないのか。
その時は不満だったが、考えてみると、ちょんまげ頭のまま治療に行ったところで何ら切迫感はない。
むしろ楽しそうだ。治療する側も脱力して診ていたに違いない。
ひとまず無事でほっとしたものの、以降はハチを警戒して見かけるたびに後ずさり。最後までペースを上げられなかった。
上り坂で斜面に両手をつく。崖のような急こう配。落ち葉に足を滑らせそうになる。四つん這いのまま、腕の力でぐっと堪える。厳しいアップダウンが連続する。
思い描いてきたジャングルは、なだらかな森林と湿地がどこまでも広がるというイメージ。まさか登山のようになるとは思いもよらなかった。
3年連続で出場したブラジル人は「これまでで1番きついよ」と舌を出し、吐くまねをしていた。第10回大会という節目を華々しく飾ろうと、主催者側がコースを大幅に変えたらしい。とんだおもてなしだ。
選手の集団は次第にばらけていく。
僕は近くにいた2人のブラジル人と韓国人のJ・Jとパーティーを組むことになった。
4人で急坂を上っていると、先頭に立っていたブラジル人のジェイソンが突然立ち止まった。
退役軍人の彼は呼吸を乱すことなく、ひっきりなしに歌う。
小柄な体のどこにそんなエネルギーを蓄えているのだろうか。僕とJ・Jに即席のポルトガル語講座を開いて下ネタを教えるなど、ひたすら陽気。ラテンの血が流れる典型的なブラジル人だ。
そんな彼が一言もしゃべらない。
鼻を鳴らしてにおいを嗅いでいる。
周囲の森には、特に変わった様子はなさそうだが、何か異変があるのだろうか。
よく日に焼けた顔は40代を過ぎ、深いしわが刻まれている。珍しく深刻そうな表情をしている。
「ちょっと気になっただけ。オンサだ」
オンサ。ポルトガル語でジャガーを指す単語だ。
ジャガーの臭いがしたのだという。前日に説明を受けたジャガーの通り道に入り込んでいた。ジェイソンに教えてもらわなかったら、まったく気づかなかった。
臆病な動物らしいが、そんなことを聞いたところで恐ろしいものは恐ろしい。出会い頭に襲われたらひとたまりもない。
何事もなかったかのように歩き出すジェイソン。
さすがは元軍人、ジャガーの影に動じることなく、再び歌い始めた。
歌詞は分からないけど、僕も一緒に歌う。どうかジャガーに襲われませんように。切に願う。自然と声が大きくなった。