対立するのことは、実は対立ではなく対なんだと思うのです。
優れていたいと思うのは、その反対側にある劣っているということを見ているからでもあるんだと。
勝ち負けで、勝ちたいと思うのは、負けると惨めだという思いがどこかにあって、つまり負けが自分の意識の中に入っているから、勝ちたいという思いも湧き出てくる。
ここら辺まではなんとなく理解できる。
それでは自分は無限の存在だ、宇宙は無限だという時、そこに反対の有限を意識しているのだろうか。
有限であることを否定したくて無限であろうと思う時、否定という概念がキャンセルされて、結局は有限を意識せざるを得ないという事にならないか。
いや、有限と無限を対と見なすから、そうなるのかもしれない。
有る無しというのは、対をなしているのだろう。
無いから、そこを埋めようとする。
欲求は無いと感じているから湧き出てくる。
お腹が減っている時、喉が渇いている時、食欲が湧いてくる。
お腹がいっぱいの時には、いくら目の前に中トロやウニの寿司が置かれても、手が伸びないかもしれない。
満たされているという感覚があれば、欲求は生じないはずなのだが、自分のいる社会はあれも足りない、これも足りないと、不足を意識させるようなことでいっぱいだ。
言葉が矛盾しているけど、この社会は欠乏で満たされているとさえ言えるかもしれない。
不足ということは、そもそもある枠とかキャパシティが設けられていて、そこに欠けている部分があるから足りないとなる。
枠があるということは、つまり限りがある、有限ということになる。
宇宙の始まりはビックバンだと言われる。
ビックバンは、素粒子の対となるニュートリノが何かの拍子で「破れ」と言われる欠けた状態になり、そこで大爆発を起こしたもので、そこから急速に広がって宇宙ができているとも言われる。
その宇宙の中に存在している人類も、やはり対概念の破れ、不足ということがビルトインされていて、だからこそ欲求も生じているのかもしれない。
そう考えると、有る無し、優劣、勝ち負けといった2つの対立するような事柄から逃れることはできないのかもしれない。
ただ、宇宙ができる以前、ニュートリノは対をなしてニュートラルになっていたのであるなら、ニュートラルという状態も同じようにビルトインされているんじゃないか。
だからこそ自然体ということもあり得るんだと。
土用の丑の日だけれど、うなぎよりも普通の寿司が食べたいと思いながら、そんなことを冷房の効いた部屋でぼんやり考えたりしたのです。