高村 薫さんの小説は自分にとっての安定剤 単なるミステリーではない秀作の数々 | Takuyaki's Blog

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    高村 薫さんの小説は自分にとっての安定剤              単なるミステリーではない秀作の数々              生々しさ溢れる人物描写は 何故だか己の心を落ち着かせてくれる                    『レディ・ジョーカー』をネタにして語らせていただきます

僕は髙村 薫さんの小説を愛読している者です。

きっかけとなった作品は,公開当初にその内容と筆致等がなにかと話題になり,文壇にある種の衝撃をもたらしたとされる『黄金を抱いて翔べ』でした。それには,大阪市の街中にある大手銀行の地下に眠っている金塊の強奪を企てる男たちが描かれていました。話の展開,登場人物の外面・内面の描写,そして,銀行の防犯システムや社会的インフラに関する精緻な(精緻過ぎる?)記述,加えて,作品全体を包んでいるソリッドな空気感…等々が,うまく融合している一作であります。


 

読後,その作品自体に対する特別な感想を抱くとともに,著者である髙村 薫という人について…,

「この人って,もしかして男性? 否,女性らしい。国際基督教大学を卒業した後,商社かどこかに就職をし,その後,文筆家に転じた…となっている。大学では,おフランスの文学を専攻…か。国際基督教大学出の人が,こんな文章書くのか(書けるのか)!? こんな文章を作り上げることができる社員って,上司からすれば,使いにくいこと この上なかったであろうな~」

…な~んて思ったりしたものです。

髙村 薫さんの作風は,よく「骨太な」と形容されますが,まさにそのとおりだと思います。
現岸田政権が打ち出している方針の中に,「骨太の~」ってのがありますけんど,そちらの方は,見掛け倒しの感を否むことができません。
「軍配は髙村作品に…」ってところでしょうか。

髙村さんの作品に対しては,賛否両論がきっとあることでしょう。「否」の側に立つ人は,「深読みをすれば感銘を受けるのかもしれないけれど,その前の段階で読み疲れてきて,途中で本を投げ出したくなる」的な発言をすることが多いのであろうと,アタクシは推察しています。人間社会における各種のシステムや権力構造,表社会ではないところで暗躍する様々な立場の人間たち,人の内面に宿る感情・感覚・観念…等々の描き方が微細かつ独特で,それに拒絶反応・消化不良を示す人は,一定数いるであろうと思いなすことができます。

それとは逆に,髙村さんの作風・持ち味にハマる人は,それこそ「どっぷりと」ハマることになるのでありましょう。

私もその一人です。


僕が,しばしば読み返してきた髙村作品は,『レディ・ジョーカー』ですね。

1990年代の半ばを時代背景として,当時の日本の虚実が描かれています。バブルの象徴であるかのような日之出ビール(キリンがモデル?)の高層ビル本社と,羽田近くの産業道路沿いの寂れた住宅地界隈の対比が,とっても効果的に著されています。
日之出ビール社長の誘拐犯(グループ)の群像の描き込みが実に生々しく,その描写力という点において,本作は異彩を放っていると,僕は思っています。


競馬場で顔見知りになった男たちと,その内の一人がいつも連れてきている障害女児(レディ)。この一見何者でもなさそうな一群の人間たちが,運命に操られるように集結して,男衆がバブル日本を象徴する巨大企業を脅迫する。

計画の策定主は,青森の八戸出身の物井老人です。この好々爺が,20世紀を生き抜いてきた人生の重さを背景にして,未曾有の犯罪という形で内面表現をするのであります。

このBlogの下の方に書き並べたロングな文章は,『レディ・ジョーカー』における物井老人の胸の内に関するものです。

 

人間の心の奥底には,教科書的ではない黒々とした想念や感覚が去来して渦巻くことだってあるでしょう。むしろ,それが人間の実態なのではないでしょうか…。


『レディ・ジョーカー』に登場する半田修平っていう刑事の,「はみだし者」的な感覚・思考も惹かれるところ大であります。
「なんか,よく分かるような気がする」…,そんな感じですかね。

小説『レディ・ジョーカー』において,僕は,この作品に登場する根来という新聞記者が職場で奮闘している様子であるとか,根来さんが勤めている東邦新聞社が一大事件の発生によって騒乱状態に陥っている場面についての記述箇所が結構好きです。締め切り時間を目の前にしての緊迫感が,ビンビンに伝わってきます。

そして,この著作を通じて新聞業の実情を知り得たことで,「新聞紙」や「新聞社」,「新聞に携わっている人たち」…に対して畏敬の念を持つようになりました。


日々,誤字脱字がない状態で,旬の正確な情報を,決められたスペースに隙間なく埋め込んで,決められた時刻までに出稿し,出来上がったものを,各家庭にきちんと届けること…というのは,それはそれは大変な仕事・作業のはずです。超システマチックです!
新聞業に携わっている方々っていうのは,この僕からすれば,「精鋭ぞろい」ですね。

髙村 薫さんのこと,そして,髙村さんが創造したもののことについて,もっともっと語りたいところですけれど,きりがないので,ここら辺りで一旦,けじめをつけさせて頂きます。はい。

以下,『レディ・ジョーカー』(髙村 薫著)からの抜粋

 

物井はふと,今しがたの小倉と旧中日相銀の話しを思い返して,いったい関係者の中で損をしたのは誰なんだと思った。食い荒らされたといっても,旧相銀も小倉も,個々の社員が借金を抱えたわけではなく,職を失ったわけでもない。逮捕された旧相銀の元役員二人にしても,せいぜい貧乏くじを引いたという程度で,本人や家族が路頭に迷うような話ではない。金が回るということは,どこかで借金も回っているはずだが,なにしろ額が大き過ぎる話だから,最後につけを払う個人がいるとも思えない。要は誰も身ぐるみ剥がれた者はいないのだと思い至ると,物井は急に鼻白んだ。
一方でそのとき,半世紀も昔に売られていった牡馬の駒子を唐突に思い出しながら,物井はある思いを巡らせた。高の言う通り,金はたしかに回して儲けるものだろうが,財を成した人々が回しているその金は,元はといえばどこから来たか。郷里の村で炭俵を運んでいた父母の手から,キューポラを燃やしていたこの自分の手から,女工をしていた姉の手から,ビールを作っていた岡村清二の手から,生まれ出た金ではないのか。にもかかわらず,自分たちの手にはいつも,食うのがやっとの金が回ってくるのみで,あとは全部何者かの財になったのだった。それだけでなく,貧窮していた物井の一家から,最後の糧だった駒子を地主が取り上げていったように,空っぽの金本鋳造所の工場に残っていたバケツ一杯の鋳物屑を借金取りが持ち去ったように,持たざる者や才覚のない者からとことん搾り取ることで,財というものは築かれてきたのだ。実に,今ごろ気づいてどうするというところだったが,物井は久々に己の人生にみちみちていた閉塞感を呼び戻すと,さらにどっと鼻白んだ。
戦後半世紀,ついにどこへも抜け出すことが出来なかった蟻一匹の閉塞感は,終戦直後のそれが漠とした闇におののくような感じだったのに比べると,今はむしろ,自分が息をしているこの時空全体が刻々と収縮しているような,まさに時間も空間も残り少なくなっているような,ある種の焦燥感に近いものになっていた。日々のちょっとした意味不明の苛立ち。こうした物思い。あれこれ考えてはいつの間にか陥っている放心等々,何もかもじりじりとして,容赦なくこの自分を苛んでくる感じだった。