若い頃から「銀行的な仕事が苦手~」とずっと感じていました。
几帳面さが求められ、数値(お金)がちょっとでも合わないと何度も計算やり直しが必要で、誰かのミスはみんなのミス、「ワンフォーオール、オールフォーワン」みたいな体育会系チームワーク、しかしそこに「新しいやり方の提案」は必要とされず、むしろ苦笑されて前例のなさから却下される、「DODA」のCMに出てくるような世界。
あの頃はバブルでアホバカ私大文学部でも大手銀行が採用してくれそうな空気感でしたが、いや、銀行だけは絶対ムリと思っておりました。きっと、向こう(銀行側)はもっと、「おまえなんか絶対採用しない」と思っていたに違いないでしょうけれども。
「横並びは美徳」で「出る杭は打たれる」「前例主義」。
子供の頃から、「人と違うことをやりたい」意欲だけで生きてきたような私のようなはぐれ者は、そういうキッチリした巨大組織ではすぐに息詰まって苦しくなるのは間違いないのです。
だいたい、小さい頃から、「計算」が何より苦手。
二桁の足し算は暗算が怪しく(一桁足し算も微妙な時がある)、「九九」は「七の段の後半」が今でも嫌い。結構「図形問題」とか「文章題」とかわりと得意なんですが、いっつもいっつも「計算間違い」が多発しすぎて、算数も数学も二度とやるかボケと思いながら生きてきました。
父がこんななのに、よくまー長男は理系に進めたことよ。
遺伝なんてないさ、遺伝なんて嘘さ。
仕事をするなら、「なんでもいいから」何かを「つくる」仕事がいいのではないかとずっと感じていました。
自分も毎日何かしら書いたりするような仕事をずっと30年近くしてきました。
真っ白な紙に、自分の書いた何らかのもので埋まっていく過程が、すごく充実感を感じるのです。
一応「なにもなかった」ところが、徐々に何かができていく。
単純にこれは、根源的な「人の喜び」に近いものだと思うのです。
「ブロック」で「乗り物」を作ってみたり、
「砂」で「お城」をつくってみたり。
「チラシの裏側」に「漫画」描いたり。
子供の時から、運動なんかせずに、そんなことばっかりやってました。
あれはみんな、単にその「作業自体が楽しい」からやっている。
「できたもの」を自分で眺める「達成感」も気持ちいい。
何かを「つくる仕事」というのも、その延長線上にあると思うのです。
「つくる」のは、何でもいいように思います。
昨年亡くなった父は、国鉄に勤めており、「トンネル」とか「橋」とか「駅」とか作ってました。
もちろんすごくたくさんの人との共同作業だし、公共的建築物ですから、そんなたいして「個性」も「芸術性」もなんもないわけですが、それでも、たぶん、「つくる」作業が楽しかっただろうと思います。
全男子がはまる「プラレール」の「本格プロ」版なわけなんで。
山だったところに、トンネルができて新幹線が通ったり、川や海峡に橋ができたりしたら、それ何十年も何百年も残ったりするものです。
あきらかに多くの人の「役に立つもの」を作っている。
それを作るのに自分も携わったという誇らしい気持ち。
毎日徐々にできていく「進捗」を見ているだけでも、嬉しかったんじゃなかろうか。
そういう「つくる喜び」というのは、「給料の多寡」とは別のものかと思います。
給料なんて、どんな会社でも、どんな業界でも、今それほど天と地との差なんてないじゃん。
そういうわけで、自分も何かつくったりするような仕事がしたいと思ってました。
高校生の頃は、なんとなく、「家・建物を設計する人」にも憧れました。
祖父が建築士でしたし、私は「絵」「美術」が得意だったので、そういう感じも活かせそうかもと思ったのです。しかし、忘れてました、冒頭に書いた通り、私はとにかく「計算」が死ぬほど嫌いで苦手だったので、理系用の勉強がまっっっっっっったくできなかったのです。残念。
算数数学とか二度とするかボケ。
そんなわけで、「美術」の次に得意な「国語」を活かせる学部に入学し、今に至ります。
実は、長男の名前にも、「つくること」に関係する言葉をいれてます。
「つくること」って単純に楽しいと思うんだよね。
人間が生きる喜びにつながる。
文字通り「建設的」。
何かを「つくっている」時には、時間を忘れてしまう時ありますよね。
そういう生き方がいいんではないかと、子供を命名いたしました。
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2024年は大変な始まり方でしたが、
これからV字回復で、皆様にとってすばらしい一年となりますことをお祈りします。
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