片野です。最近、低気圧頭痛を発症することが多くなりました。なんだか高い山に登った時のような感覚です。眠くなったり、頭痛くなったり。

 

 

 

 今日はランダル・レイの現代貨幣理論入門の読書感想文、第三回目です。今日は第二章について、思ったことを書いていきます。本書の章数とブログのナンバリングが1つずつずれてしまったのはご愛嬌。

 

 この章のタイトルは「自国通貨の発行者による支出」です。個人的には、ここにもう一つ「租税」を加えて「自国通貨の発行者による支出と租税」のほうが、タイトルとしていいんじゃないなあと生意気にも思いました。それくらい、租税が大事という議論をしているように読めました。

 

 前回は三部門収支アプローチの話をしました。ここまでは特にMMT固有の話、というわけではありません。ここから特に、政府部門の赤字支出とは、実際にはどのように行われるのだろうか、という議論をしていきます。ここがMMTの特徴を際立たせる鍵であると、レイは言います。その前段階として、「すべての自国通貨の発行者に当てはまる一般的な原則」として、租税貨幣論の話に入っていくわけですね。去年、初めて現代貨幣理論を読んだときは、第一章の三部門収支アプローチ、第二章の租税貨幣論、第三章の政府の支出プロセスを、頭の中では独立した章として読んでいました。それぞれの章がリンクできていなかったです。ただ、今回の読書感想文のために丁寧に読んでみると、かなり地続きな理論なんだなあ、と感じました。

 

 少し前振りが長くなってしまいましたが、本題に入ります。「すべての自国通貨の発行者に当てはまる一般的な原則」を考えていきます。その前に、この章の各節のタイトルを、先に紹介しておきます。

 

1:主権通貨とは何か?

2:通貨を裏付けているものは何か? なぜ誰もが通貨を受け取るのか?

3:租税が貨幣を動かす

4:人々が自国通貨の受取りを拒んだらどうなるのか?

5:計算貨幣による記録

6:主権通貨と実物資産の貨幣化

7:持続可能性の条件

 

 今回は節ごとに分けて、感想文を書こうと思います。

 

1:主権通貨とは何か?

 この節ではまず、MMTを知るうえで最も重要な概念のひとつ、「計算貨幣」が登場します。あちらの言葉ではMoney of accountというらしく、実際マクロエコノミクスを読んでいると何度も登場します。本書における計算貨幣は独特な概念です。標準的なマクロ経済学の教科書を読んだ方は、貨幣の役割の一つである計算単位という概念を想起されるのではないでしょうか。

 

 少しかっこつけた話をすると、貨幣は私的財としての側面と、公共財としての側面を持つという、貨幣の役割の整理の仕方があります。これは経済学者アグリエッタの「貨幣の両義性」という見方です。公共財としての側面とはまさに、本書における「計算貨幣」という概念に近いと思います。円という単位を誰かが使うことで、別の誰かが使えなくなることはありません(非競合性)。また、特定の誰かが、意図的に円という単位を使えなくする、ということは不可能に近いです(非排除性)。誰が言ったかは忘れたのですが、「もの」としての貨幣ではなく、「こと」としての貨幣である、と表現していました。

 

 そして、この計算貨幣について、次のようにレイはいいます。「国家が自らの独自の計算貨幣を採用することは、圧倒的に支配的な慣習である」。 レイはやたらとカザフスタンのテンゲを列挙するのがちょっと面白いですね。そして、この国の通貨はしばしば「主権通貨」と呼ばれるとレイはいいます。言うほど、主権通貨って言われるか?とは思いましたけど、この概念はMMTを語るうえで非常に重要です。

 

 MMTでいうところの主権は、政治学や公民の教科書に書いてあるような主権とは少し意味が違います。僕が持っている政治学の教書に書いてある主権の定義を持ってくると、「国家の絶対的、永続的、不可分の権力」であり、具体的には「自国の領土内における統治については何ら制約を受けない排他的な統治権」と「国際関係において自国より上位の主体の存在を認めず、各国の平等が認められる」という2つの要素から成り立っている概念です。ちなみに元ネタはボダンという人です。MMTで言う主権(通貨主権)を僕なりの理解で言うと、

 

1:計算貨幣の決定

2:計算貨幣であらわされた課税

3:計算貨幣による通貨発行・支出

4:計算貨幣であらわされた徴税

 

の四つを行うことができる権限を持つことを、主権とあらわしているかと思います。「政府は、民間の個人や団体にはない様々な権限を有する。ただし、ここで論じたいのは、貨幣に関する権限だけである。」とも書いてあります。

 

 政府の支出、すなわち主権通貨の発行はこの計算貨幣であらわされたものになります(be denominated in money of account)。政府が徴収する租税、行政手数料、罰金なども、この計算貨幣であらわされます。

 

2:通貨を裏付けているものは何か? なぜ誰もが通貨を受け取るのか?

 この段落は、次の段落のための前振りって感じですね。金本位はとうに終わったし、一般受容性による説明は「ババ抜き貨幣論」として痛烈に批判してます。関係ないけど、ウォルマートってあっちのチェーン小売店舗なんですね。てっきり人の名前かと思ってました。ジョン、メアリー、ウォルマートみたいな。重要なのは、支払い手段制定法も、貨幣の裏付けとはなりえないと説明しているところです。「MMTは信用貨幣。法廷支払い手段とされているからみんなが受け取るのだ。だから輪転機ぐるぐるで問題ない!」という理解をしている人をたまに見かけますが、これはレイがちゃんと否定しているので注意です(後ほど触れますがMMTは輪転機ぐるぐる、プリンティングマネーという貨幣観も否定します)。

 

3:租税が貨幣を動かす

 ひとしきりいろいろな貨幣の裏付けに関する考え方を否定しました。それではMMTはどう考えるのか、本題に入ります。貨幣の裏付けはずばり「租税」です。ある特定の貨幣が通貨として流通する理由は、その貨幣がその主権国家の租税の支払いに利用できる唯一の手段だからです。租税貨幣論なんて言われます(英語だとtax driven money)。

 

 ユニークだなと思ったのが、貨幣の主な機能は上記のように租税債務の履行に利用できる唯一の手段であり、日常的な決済のための利用は二次的な機能だと考えている点です。これ初めて読んだときは大胆だなあと思いました。ふつうは逆で考えると思います。まず交換機能として貨幣が、物々交換の世界から自生して、それを中央政府が税で徴収し、政府のプロジェクトのために支出されると考えるのが、なじみ深くわかりやすい貨幣の見方だと思います。しかしMMTではそういった貨幣に対するレンズを否定するわけですね。

 

 これは僕の勝手な推測なんですが…。この本を読んでいると、巷で有名な「スペンディングファースト」という言葉が出てこないんですよね。なのでいまいちスペンディングファーストがなんなのかはっきりわかってません。おそらく、上記のような計算貨幣による政府支出→徴税という一連の流れで貨幣は通貨たり得るので、交換から貨幣が自生→税で徴収という「貯蓄」のプロセスを取らない、という文脈のことをスペンディングファーストと言うのかな、と理解しました。

 

 ここで、わかりやすくこの段落の話をまとめた一説を引用します。

 

「政府の通貨(という負債)の償還は、金によってではなく、

政府に対する支払いを通じて[訳注:政府が支払手段として通貨を受け取ることによって]履行される。」

 

 最後にモズラーの名刺の話をしています。ミンスキーの言葉としてもツイッターでよく見ますね。我々はみな自らの負債として貨幣を発行することができるが、問題は相手に受け取らせることができるかどうか、という点ですね。僕が家庭を持っていて、息子に計算貨幣「ネイオゲ」でデノミネイテッドされた税を課し、そのうえで公共目的として掃除という行為にネイオゲで価格をつけてやる。息子がまじめに掃除に取り組めばネイオゲで支出する。最終的に息子はネイオゲを用いて自らの租税債務を履行することができる。もしまじめに掃除に取り組まず、租税債務を踏み倒そうものなら、僕がお尻たたきの罰を与えるので、息子は通貨ネイオゲを需要するわけです。

 

 この一連の流れは、親子関係があるからこそ成り立つわけです。よその家族にそんなことをしようものなら、変人扱いか、警察沙汰になると思います。これはのちの貨幣ヒエラルキーにつながってくる議論だと思います。主権国家の通貨はこういう意味で特別なんですよね。主権国家は様々な経済主体の中でも特別、租税債務を履行しないものに対して、誰にも何にも咎めらることなく罰を与えることができるんですね。これは民間の経済主体には不可能です。

 

 ちょっと飽きてきたので、今回は章の途中ですが終わりにしようと思います。

 

 

 

 

 

 片野です。現代貨幣理論入門の読書感想文の2回目です。改めて読み返すと、今まで読み飛ばしていた部分に、結構面白いことが書いてあるなあと、思いました。それともう一つ、友達がMMTに興味を持ったらしく、秀和システムから出ている、望月さんのMMTを買ったようです。MMTの本に関しては、かなり怪しい本も出回っているので、変な本に当たらなくてよかったなあと思いましたです。真壁昭夫の「MMTの教科書」とか、絶対買ったらだめです。ケツ拭きにもならない産廃です。

 

 本題ですが、まずは第一章「マクロ会計の基礎」です。三部門収支アプローチの話がメインなんですが、ここはレイが言うように本当に重要な部分というか、MMTレンズのために必要な前提知識だと思います。「ある部門の財政赤字は、別部門の財政黒字」というのは、なんだか当たり前すぎて読み飛ばしがちだと思いますが、常に頭の中に入れておいたほうが、そのあとの議論がすっと理解できるのではないかなあと思います。

 

 面白かった部分としては、MMTは外部資産ばかり考えている、という批判について語るところです。閉鎖経済における三部門収支で、民間部門の黒字と政府部門の赤字は等しく、そのフローだけ民間部門の外部資産となります。非MMTの経済学者からは、「MMTerは内部資産、例えば、企業部門が家計部門に対して保有する純金融資産とか、そういった部門内の純金融資産がどのように分配されているのか、という点を軽視している」という批判があるらしいです。これに対して、レイは、そういった内部資産の分配を考えるのも非常に重要だし、この二つのどちらに焦点を当てるかの違いというだけなので別に排他的な議論ではない、と言っています。

 

 現在の日本はどうでしょう、MMTは内部資産の分配を軽視しているという批判をした人、いましたかね。残念ながらそこまでのレベルに達していない気がしますね…。

 

 あとは、部門別収支の因果関係を明らかにするのは難しい、という話もしています。財政赤字が続くか否か、それがわかってしまえば予測結果にかけて大儲けできる、といった話をしています。松原隆一郎の「経済思想」で、何兆円産業と言われる経済予測はまったくあてにならず、政府の財政支出すら予測することができない、というのを読んだことがあります。これだけ言われているので、僕たち有象無象による、政府の財政赤字と経済成長率を安易に結びつける議論が、いかにしょうもないことなのか、という感じがしますね。

 

 この章において、一番重要な恒等式をいかに書いておきます。ちなみに、これはMMTで知った人も多いと思いますが、普通にマクロ経済学の教科書にも書いてある話です。

 

 国内民間収支 + 国内政府収支 + 海外収支 = 0

 

 全員同時に黒字になることなんてできない、というわけです。なんかアメリカのラジオ番組を引き合いに出して、「全員が平均以上の点数をうことができる小学校」みたいなことがかかれていました。レイのローカルネタ、全然わからないのが残念です。スーパーサイズミーは見たことがありますが…。

 

 次に、赤字から貯蓄へ、債務から資産へ、という方向についての話です。最初に、「個々の支出はたいてい所得によって決定される」という話をします。マクロ経済学でも、ケインズ型消費関数なんて言いますもんね。独立消費(所得にかかわらず、生活のために必要な最低限の消費)と、所得に応じて変わる消費(限界消費性向と所得の積)であらわされる。昔は知らなかったんですが、消費理論っていろんな理論があるんですよね。有効需要の原理だけ勉強すると、消費関数はケインズ型の1つだけだと思っていましたが、フリードマンの恒常所得仮説やモディリアーニのライフサイクル理論、デューゼンベリーの相対所得仮説やトービンの流動的資産仮設など、実はいろいろあるんです。初めて現代貨幣理論入門を読んだときは、こういった消費理論がたくさんあることを知らなかったので、なんでわざわざレイは、「これから述べる因果関係は、ケインズ理論からきている」なんて言うんだろう?と思いました。

 

 上記の「所得から支出へ」という方向性は直感的なので分かりやすいですが、「赤字から貯蓄へ」というのはなんかイメージと違いますよね。個々の企業が投資をするうえで、または個々の銀行が貸出を行う上で(これらはまとめて、自身の負債を発行するという行為である)、本源的な預金、事業の元手となる貯蓄が必要であるというのは、日本銀行で勤務されていた横山昭雄も言っているところです。しかし、もちろん因果関係は複雑ではあるものの、傾向としては個々の赤字支出から個々の金融資産の蓄積へ、債務から金融資産へという方向があるとのこと。この傾向はマクロ経済で見ればより明確となり、総支出が総所得を生み出す。社会はひとりでに所得を増やせないけど、支出を増やすことは決定できる。このすべての支出は、誰かにどこかで、所得として受け取られなければならない。「個々のレベルでは所得が支出をもたらすが、マクロレベルでは支出が所得をもたらす。」 この逆もしかり、個々の経済主体が貯蓄を増やそうとして支出を減らすと、支出が所得をもたらすというように、逆に所得が減ってしまう。最終的には、意図したものと逆の結果をもたらしてしまう。まさに倹約のパラドックス、合成の誤謬です。

 

 「赤字が金融資産を生み出す」というのが、この後のMMTの租税貨幣論を語るうえで、非常に重要な考え方です。政府部門も民間部門も、いや、このブログを書いている有象無象の一人である片野も、自身の負債を発行する、すなわち所得を上回る支出をすることは可能です。そのうえで、その負債を相手に受け取らせることができるかどうか、誰かの赤字を蓄積し貯蓄することを望むほかの経済主体が存在するかどうかが、問題となるわけです。この議論の上で、様々な経済主体の中で、政府部門だけが他者に租税という債務を強制的に負わせ、自身の負債を強制的に受け取らせることができる、という議論につながってきます。

 

 タンゴはふたりいないと踊れない、という表現をレイはしていますが、このマクロレベルで見た支出から所得への方向ってのいうのは、タンゴで例えるとどんな感じなんでしょうね。タンゴってどちらかがリードしたりするのかな?正直社交ダンスとごっちゃになっている…。

 

 次のバスタブアナロジーは、まあいいかな。リッキーさんのいっちばん最初のエントリに、バスタブアナロジーについて結構面白いことを書いてあるので、ぜひ読んでほしいです。

 

 個人的に重要だなあと思ったのは次、「政府の財政赤字の大部分は非裁量的である」という節。ここでは、政府部門の所得(税収)は、一般的には裁量的だと考えられているが、実際には非裁量的である、ということがグラフとともに説明されています。赤字支出、財政政策をどの程度拡張するのかは、政治的な、予算決定プロセスという制約はあるにしても、一応裁量的と言えます。しかし、税収に関しては、政府が裁量的に決定できるのは税率だけであり、その税率をかける対象(例えば所得や売上、資産など)は、政府のコントロールが及びません。つまり税収は非裁量的、外生的に決まってしまうので、畢竟、支出から税収を差し引いた政府部門の財政赤字も非裁量的となってしまいます。

 

 海外部門を考慮しても、つまりは輸出と輸入にしても、非裁量的であるとレイは考えます。輸出は、海外経済の成長 為替レート、貿易政策、相対的な価格水準や賃金水準など、多くの要因に左右される。輸入は国内所得に大きく左右される。輸出入のいずれにしても非裁量的であると考えられるので、その差である経常収支も非裁量的だろう、というのがレイの説明するところです。

 

 上記のように、基本的に部門別収支というのは、ある一つの経済主体が意図的に変化させようとしても、つまりは裁量的に変化をさせようとしても無理だ、というわけです。これを受けて、レイは非常に重要な(僕が「重要な」というときは、「日本の論壇で無視されがちな」という意味で使っています)ことを言っていますので、そのまま引用してこのエントリを終わりにしようかと思います。本当はもう少し第一章は続くんだけどね。

 

 「部門収支の結果にこだわることなく、国内の資源をその能力いっぱいまで利用するような支出を促すことが、最も理にかなう。後に論じるように、最善の国内政策とは、完全雇用と物価安定を追求することである。-結局は大部分が非裁量的な政府赤字や政府債務に対して、根拠なき上限を課すことではない。」

 片野です。今回は、レイの現代貨幣理論入門の読書感想文です。

 
 
 
 
 確か去年の暮れぐらいに読み終わったんですが、マクロエコノミクスが到着したということもあり、復習がてら読書感想文を書いてみようかなあと思った次第です。
 
 読んでみて思ったのは、俗説と異なり、かなり穏当な内容だなあという感じです。巷で言われているような「1000兆円の財政出動!」とか、「国債は金を刷って返せば良い!」とか、そんな雑な内容でありませんでした。
 
 過度な財政政策の拡張は、物価や為替に悪影響を与えるかもしれないですとか、
 
 政府のプロジェクトが大きくなり、民間から資源(労働や資本など)を引き抜けば、インフレを引き起こすかもしれないですとか、
 
 予算プログラムは或る意味で有効であるとか、
 
 結構、現実的なことが書かれていました。あとは経済成長で雇用拡大、バブル礼賛みたいなことも書かれてはいませんでした。やっぱり、ニュースやSNSを鵜呑みにしてはいけないなあ、と強く思った次第です。
 
 あとは、経済政策ばかり引き合いに出されがちですが、実際の内容としては半分くらいは、「貨幣とは」「租税とは」「会計の大原則」「政府の支出プロセス」のように、現実に対する一つの見方、あるいは制度の知識のように、結構中立なないようなのかなあと思いました。
 
 後半部分はJGPなどを中心に規範的な内容を取り上げられます。そちらも面白い。けれども、現状、日本のMMT論壇では前半部分の浅い理解に、自分の思い思いのイデオロギー、経済政策を取ってつけたようなものが、MMTの正解のように語られている印象です。
 
 実際、本の中で、MMTの基本部分は現実に基づいた記述的な内容であり、リバタリアンだろうがリベラルだろうがMMTを採用することができる、といったことが書いてあったりもするんですけどね…。
 
 前ふりがかなり長くなってしまいました。もう作文が苦手すぎて、読み手のことを考えることができないので、ご容赦ください(そもそも、読んでいる人はいないであろう、という前提で書いている)。
 
 それでは、一章ずつわけて感想を書いていきたいと思います。
 
・序章 現代貨幣理論の基礎
 
 この本の内容の要約が書かれています。MMTはものの見方、レンズなんだということは、Twitterやってる人だと聞いたことあると思います。これの直接の元ネタかはわかりませんが、レイが担当する大学院のゼミ生が、「MMTというレンズで、マクロ経済がスッキリ見えるようになりました!」と言ったらしいです。めちゃくちゃいい子なんだろうなあ…。
 
 我々の貨幣制度はケインズが言ったように、過去4000年間、国家貨幣制度であったと。国家貨幣制度とは、かんたんに言えば、「国家が計算貨幣(マネーオブアカウント)を定め、それを単位として表示される義務(租税や罰金など)を課し、そうした義務を果たすための支払い手段をとなる通貨を発行する制度」であるとのこと。
 
 国家が計算貨幣を決定
→国家が課税
→国家その計算貨幣で図られた通貨を支出
→納税で回収
 
 というのが、過去4000年前から、貨幣の形を問わず、一貫した流れなんだということかな(自信がない)。
 
 …開始早々こんなことが書いてあるのに、「現代貨幣理論の現代とは、モダン、つまりは新しい、今っぽいという意味です」だなんて言い放った真壁昭夫は、そりゃRickyさんにキレられるよなあ。
 
 現代の政府の赤字支出の方法は、複雑なプロセスを取っている(後の章で、両手足を縛る、なんて表現がされています)。MMTが最初に説明するような素朴な国家貨幣制度と地続きであることがわかりにくくなっているとのこと。
 
 豆知識として、アメリカで税金を支払うときはタックスリターンというらしいです。そして政府に受領された通貨はレベニューというらしいです。レベニューは「返す」という意味のフランス語から来ているとのこと。この2つの言葉から、今も昔も、MMTで言われるような国家貨幣制度であることが読み取れる。
 
 「政府は支出のために自らの通貨を借りる必要がない!」というのが重要なポイントです。これはこのあとの章でもうんざりするくらい聞かされます。
 
 銀行券の廃止と、フェドの誕生、つまりは発見集中の話が出てきます。これは宇仁ほか入門社会経済学を読むと、よりわかりやすく学べます。ポイントとしては、銀行も国家と同じように、自らの負債を発行し、受け取らせることができるということ。
 
 …なんだか、くどい前ふりと第一章だけで、かなり長い文章になってしまった。一章ずつ分けて書こうかな…と思い始めました。というか飽きてしまった。
 
 気が向いたら、第一章からコチコチ書いていこうかなと思います(多分書かない)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 片野です。ゴールデンウィーク前に購入した、マクロエコノミクスが届いたので、その自慢をしたいと思います。
 
 
 

 
 
 
 最近、MMTという経済理論が流行ってます。日経新聞の雑な解説とかでご存知の方もいらっしゃると思います。なんだかリレフ政策、FTPL、馬場財政とかと区別がついてない人が多いです。日本のMMT論壇ははっきり言って論ずるに値しない様相を呈しています。
 
 原因は色々とあると思います。MMTを理解した、私が日本にMMTを広めるんだ、くらいに言っている人が、租税貨幣論やJGPを否定するどころか理解もしていなかったり。あるいは大手の報道機関で解説をしてみせるエコノミストが、一般人向けの入門新書すら読んでおらず、俗説のまま理解をしていたり。
 
 まだ僕が小学生くらいの頃から、MMTを研究をしているRickyさんも、MMTはまだ日本で流行るべきではない、という趣旨のエントリを上げていましたが、本当にそのとおりだなあと思います。
 
 かくいう僕も、Rickyさんのブログやレイの現代貨幣理論入門を読むまでは、浅い理解のままいろいろな人に話していたりするので、あまり偉そうなことは言えないんですけね…。
 
 今回購入したのは、その一般人向けの新書の著者であるランダル・レイと、ウィリアム・ミッチェル、マーティン・ワッツの共著である、学部生向けのマクロ経済学の教科書です。
 
 人生初の洋書とあって、なんだかすごく宝物のような感じです。ただ、これから書き込みまくって、たくさん汚すんだろうども…。
 
 パラパラと読んでみると、貨幣ヒエラルキーのピラミッドの図が合ったり、「money of account」、いわゆる計算貨幣がたくさん書かれていて、ちょっとテンションが上がりました。
 
 なんだか、日本の有志がすでに翻訳をされているようですので、困ったらそっちも参照しながら、気長に読んでいこうと思います。
 
 人生の最終目標は独学でローマー上級を読破することなんですが、どんどん先延ばしになっています。気長に勉強していこうと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

資本主義の政治経済学――調整と危機の理論

 

今年の頭あたりに、パソコンを家に置いてきてしまったので、ブログを全く更新できなかった。久しぶりに快活クラブにきてパソコンが目の前にあるので、久しぶりに思ったことを書いてみようと思う。

 

最近、レギュラシオン理論というものを知りました。資本主義は空間的多様性、時間的可変性を持つ、みたいな感じで、個別の資本主義が経験する個別の成長、個別の危機(構造的危機とか大危機とか)を、個別のケースとして分析する、みたいな感じだった気がする。

 

主流派経済学(たぶん新古典派総合)で出てくるさまざまな理論(ミクロ経済学の限界分析とか、マクロ経済学の成長論、ソローモデルくらいしかわからんけど)というのは、いついかなる時代、どの場所でも成り立つ普遍の理論のように説明されます。しかし、実際の資本主義経済ってのはその地方、時代によってさまざまなありかたがあるので、絶対普遍の理論で分析するのは無理だ、みたいな感じです。

 

これはレギュラシオンアプローチのほんと基本的なところで、実際の理論はもっと難しいです。蓄積体制とか調整様式とか発展様式とか、おもしろい概念がたくさん出てくるんですが、今回はそういった話には入らず(そもそも僕が全然理解できていないので説明できないのもある)、うえに書いた「資本主義の空間的多様性と時間的可変性を重視する」という部分は特に重要な教訓になると思います。

 

 段落の最初スペース開けるの忘れてた。経済政策についての議論になると、政府はより積極的に経済に介入するべきか否か、もし介入するのであればどれくらい拡張するのか、といった部分って重要な論点ですが、そういう話になると、現代の日本をいろいろな別の資本主義と安易に比較する人があまりに多いなあと思います。

 

 例えば、山本太郎の拡張財政路線に対してジンバブエだ!戦後日本だ!ヴァイマールだ!みたいに言う人がいます。最初に言っときますが、僕は別に山本太郎支持ではありませんが、これについては擁護したい点があります。

 

 現代の経済で重要な概念って、まず経済主体として個別の消費者、個別の生産者、そして政府があり、開放経済を考えるのであれば大雑把に海外ってものがあって、そういった経済主体が取引を行う制度として市場がって、という感じだと思います。大雑把なイメージはこんな感じでいいと思いますが、実際はもっと複雑に、「制度」が絡み合っています。レギュラシオンだと、制度諸形態として、具体的に貨幣金融制度、賃労働関係、企業競争関係、国家、国際体制ってのが挙げられています。

 

 貨幣金融制度と国際体制としては、わかりやすいところだと為替相場制度の選択があると思います。賃労働関係と企業競争関係だって、労働組合と経営者団体といった集団間での交渉、労働組合だって企業別なのか職能別なのか、組織率はどんなもんなのかといった細かい違いがあると思います。国家だって、大きな国家を志向するのか、それとも自由主義、夜警国家を志向するのか。もしくは、単純に政府支出、予算の額では測れない、規制がどれだけ存在するのか(カッコつけた言い方をすれば、西ドイツのような、なんだっけ、ニューリベラリズム、社会的自由主義みたいな)でも違いはある。

 

 くどくなりましたが、このように、その国の制度諸形態にはいろいろな形があり、また、経済の成長具合にもいろいろな度合いがあるわけです。資本主義のありかたにはグラデーションがあるわけです。簡単に比べられる代物ではないわけです。

 

 って感じです。ほかの資本主義と比較をして得られるものは確かに多いでしょうが、安易に比べて、雑な結論を導き出すのはあまりよくないと思います、という話でした。