片野です。最近、低気圧頭痛を発症することが多くなりました。なんだか高い山に登った時のような感覚です。眠くなったり、頭痛くなったり。
今日はランダル・レイの現代貨幣理論入門の読書感想文、第三回目です。今日は第二章について、思ったことを書いていきます。本書の章数とブログのナンバリングが1つずつずれてしまったのはご愛嬌。
この章のタイトルは「自国通貨の発行者による支出」です。個人的には、ここにもう一つ「租税」を加えて「自国通貨の発行者による支出と租税」のほうが、タイトルとしていいんじゃないなあと生意気にも思いました。それくらい、租税が大事という議論をしているように読めました。
前回は三部門収支アプローチの話をしました。ここまでは特にMMT固有の話、というわけではありません。ここから特に、政府部門の赤字支出とは、実際にはどのように行われるのだろうか、という議論をしていきます。ここがMMTの特徴を際立たせる鍵であると、レイは言います。その前段階として、「すべての自国通貨の発行者に当てはまる一般的な原則」として、租税貨幣論の話に入っていくわけですね。去年、初めて現代貨幣理論を読んだときは、第一章の三部門収支アプローチ、第二章の租税貨幣論、第三章の政府の支出プロセスを、頭の中では独立した章として読んでいました。それぞれの章がリンクできていなかったです。ただ、今回の読書感想文のために丁寧に読んでみると、かなり地続きな理論なんだなあ、と感じました。
少し前振りが長くなってしまいましたが、本題に入ります。「すべての自国通貨の発行者に当てはまる一般的な原則」を考えていきます。その前に、この章の各節のタイトルを、先に紹介しておきます。
1:主権通貨とは何か?
2:通貨を裏付けているものは何か? なぜ誰もが通貨を受け取るのか?
3:租税が貨幣を動かす
4:人々が自国通貨の受取りを拒んだらどうなるのか?
5:計算貨幣による記録
6:主権通貨と実物資産の貨幣化
7:持続可能性の条件
今回は節ごとに分けて、感想文を書こうと思います。
1:主権通貨とは何か?
この節ではまず、MMTを知るうえで最も重要な概念のひとつ、「計算貨幣」が登場します。あちらの言葉ではMoney of accountというらしく、実際マクロエコノミクスを読んでいると何度も登場します。本書における計算貨幣は独特な概念です。標準的なマクロ経済学の教科書を読んだ方は、貨幣の役割の一つである計算単位という概念を想起されるのではないでしょうか。
少しかっこつけた話をすると、貨幣は私的財としての側面と、公共財としての側面を持つという、貨幣の役割の整理の仕方があります。これは経済学者アグリエッタの「貨幣の両義性」という見方です。公共財としての側面とはまさに、本書における「計算貨幣」という概念に近いと思います。円という単位を誰かが使うことで、別の誰かが使えなくなることはありません(非競合性)。また、特定の誰かが、意図的に円という単位を使えなくする、ということは不可能に近いです(非排除性)。誰が言ったかは忘れたのですが、「もの」としての貨幣ではなく、「こと」としての貨幣である、と表現していました。
そして、この計算貨幣について、次のようにレイはいいます。「国家が自らの独自の計算貨幣を採用することは、圧倒的に支配的な慣習である」。 レイはやたらとカザフスタンのテンゲを列挙するのがちょっと面白いですね。そして、この国の通貨はしばしば「主権通貨」と呼ばれるとレイはいいます。言うほど、主権通貨って言われるか?とは思いましたけど、この概念はMMTを語るうえで非常に重要です。
MMTでいうところの主権は、政治学や公民の教科書に書いてあるような主権とは少し意味が違います。僕が持っている政治学の教書に書いてある主権の定義を持ってくると、「国家の絶対的、永続的、不可分の権力」であり、具体的には「自国の領土内における統治については何ら制約を受けない排他的な統治権」と「国際関係において自国より上位の主体の存在を認めず、各国の平等が認められる」という2つの要素から成り立っている概念です。ちなみに元ネタはボダンという人です。MMTで言う主権(通貨主権)を僕なりの理解で言うと、
1:計算貨幣の決定
2:計算貨幣であらわされた課税
3:計算貨幣による通貨発行・支出
4:計算貨幣であらわされた徴税
の四つを行うことができる権限を持つことを、主権とあらわしているかと思います。「政府は、民間の個人や団体にはない様々な権限を有する。ただし、ここで論じたいのは、貨幣に関する権限だけである。」とも書いてあります。
政府の支出、すなわち主権通貨の発行はこの計算貨幣であらわされたものになります(be denominated in money of account)。政府が徴収する租税、行政手数料、罰金なども、この計算貨幣であらわされます。
2:通貨を裏付けているものは何か? なぜ誰もが通貨を受け取るのか?
この段落は、次の段落のための前振りって感じですね。金本位はとうに終わったし、一般受容性による説明は「ババ抜き貨幣論」として痛烈に批判してます。関係ないけど、ウォルマートってあっちのチェーン小売店舗なんですね。てっきり人の名前かと思ってました。ジョン、メアリー、ウォルマートみたいな。重要なのは、支払い手段制定法も、貨幣の裏付けとはなりえないと説明しているところです。「MMTは信用貨幣。法廷支払い手段とされているからみんなが受け取るのだ。だから輪転機ぐるぐるで問題ない!」という理解をしている人をたまに見かけますが、これはレイがちゃんと否定しているので注意です(後ほど触れますがMMTは輪転機ぐるぐる、プリンティングマネーという貨幣観も否定します)。
3:租税が貨幣を動かす
ひとしきりいろいろな貨幣の裏付けに関する考え方を否定しました。それではMMTはどう考えるのか、本題に入ります。貨幣の裏付けはずばり「租税」です。ある特定の貨幣が通貨として流通する理由は、その貨幣がその主権国家の租税の支払いに利用できる唯一の手段だからです。租税貨幣論なんて言われます(英語だとtax driven money)。
ユニークだなと思ったのが、貨幣の主な機能は上記のように租税債務の履行に利用できる唯一の手段であり、日常的な決済のための利用は二次的な機能だと考えている点です。これ初めて読んだときは大胆だなあと思いました。ふつうは逆で考えると思います。まず交換機能として貨幣が、物々交換の世界から自生して、それを中央政府が税で徴収し、政府のプロジェクトのために支出されると考えるのが、なじみ深くわかりやすい貨幣の見方だと思います。しかしMMTではそういった貨幣に対するレンズを否定するわけですね。
これは僕の勝手な推測なんですが…。この本を読んでいると、巷で有名な「スペンディングファースト」という言葉が出てこないんですよね。なのでいまいちスペンディングファーストがなんなのかはっきりわかってません。おそらく、上記のような計算貨幣による政府支出→徴税という一連の流れで貨幣は通貨たり得るので、交換から貨幣が自生→税で徴収という「貯蓄」のプロセスを取らない、という文脈のことをスペンディングファーストと言うのかな、と理解しました。
ここで、わかりやすくこの段落の話をまとめた一説を引用します。
「政府の通貨(という負債)の償還は、金によってではなく、
政府に対する支払いを通じて[訳注:政府が支払手段として通貨を受け取ることによって]履行される。」
最後にモズラーの名刺の話をしています。ミンスキーの言葉としてもツイッターでよく見ますね。我々はみな自らの負債として貨幣を発行することができるが、問題は相手に受け取らせることができるかどうか、という点ですね。僕が家庭を持っていて、息子に計算貨幣「ネイオゲ」でデノミネイテッドされた税を課し、そのうえで公共目的として掃除という行為にネイオゲで価格をつけてやる。息子がまじめに掃除に取り組めばネイオゲで支出する。最終的に息子はネイオゲを用いて自らの租税債務を履行することができる。もしまじめに掃除に取り組まず、租税債務を踏み倒そうものなら、僕がお尻たたきの罰を与えるので、息子は通貨ネイオゲを需要するわけです。
この一連の流れは、親子関係があるからこそ成り立つわけです。よその家族にそんなことをしようものなら、変人扱いか、警察沙汰になると思います。これはのちの貨幣ヒエラルキーにつながってくる議論だと思います。主権国家の通貨はこういう意味で特別なんですよね。主権国家は様々な経済主体の中でも特別、租税債務を履行しないものに対して、誰にも何にも咎めらることなく罰を与えることができるんですね。これは民間の経済主体には不可能です。
ちょっと飽きてきたので、今回は章の途中ですが終わりにしようと思います。