アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/07/08(月) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/07/08(月) 💖💛🌈

 

 

● 賛美唱:詩編85:9-14
 85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。 85:10 主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地に留まるでしょう。 85:11 慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし 85:12 まことは地から萌え出で/正義は天から注がれます。 85:13 主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 85:14 正義は御前を行き/主の進まれる道を備えます。

:今週のテーマ【永遠の愛から】

【聖句断章】85:9
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
    
@ 【神の宣言される平和】とは?
* 【主の慈しみに生きる人々】とはイスラエルの民のことである。その彼らが【愚かな振舞い】によって再び「反逆の民」となったことに【戻らないように】との思いを抱いて宣言される平和である。「反逆の民」は先週の第一日課エゼキエル2章で主がエゼキエルに言われたみことばである。

* そのような思いから発せられた平和宣言であるから、戦争を終わらせるための妥協としてなされるような平和宣言とは全く異なる。全ての悪が退治されて奇麗にされた暁に宣言される平和の宣言である。

* 今我々はそれとよく似た状況を経験している。トランプ大統領がWH軍に支えられて大統領になった時、その就任式で「わたしはワシントンの泥沼をきれいにするために来た」と宣言した。その沼掃除を今も継続してトランプ大統領とWH軍は行っている。それが全て片付いてから彼が宣言するだろう平和が期待される。

* そのことと、【永遠の愛】がどう繋がるのか? その平和が愛による創造的平和であるということである。その愛はもはや世界を支配する悪の存在を許さない。

* トランプWH軍はDS悪党を上から順に粛清している。そのことはGITMOの軍事裁判の記録が公表されていることから分かる。しかし処刑されて死んだはずの人間が再びメディアに登場してくる。この謎をどう理解し解けばいいのか我々凡人の頭を悩ますところであるが、ようやくその意味がわたしなりに分かったように思われる段階に達した。つまりこうである。処刑された悪党政治家や世界の指導者たちを1.0と呼んでおり、その後釜で再登場してきた人間は2.0と呼ばれている。その彼ら彼女らをあえて生きているかのように活動させてい る理由は何か?が問題である。 その答えとして、既GITMOの軍事裁判で判決を受け、処刑された 1.0のDSを今度はWH軍の管理下で再登場させる理由は、彼らの醜悪な蛮行を世に晒すためである。 それが今その事を追求している人々の共通認識となっている。それはちょうど、ヨブ記で神が悪魔にその活動を限定的に許された理由と似ている。WHの軍事戦略はその神に倣った考えであると見れば、ピタリと当てはまる。

* 悪魔の悪事を限定的に許す。そこには人間の自由な創造的選択を求める神の御心がある。それは【永遠の愛から】発している人間の自由である。人間は自由に、神の永遠の愛から生み出された創造的存在である。その点に関して、昨日の週初め版の不思議な文章が役立つので、あらためて抜粋引用する。
      
 * 昨日の週初め版で  『フランシスコと歩む観想の道~今日の不安な社会の中で~』の中に奇妙な構文を見つけた。以下にあらためて抜粋引用する。

    ≫【 #神との一致の命はイエス・キリストにおいて伝達された三位一体の命以外の何ものでもない。そうならば、私たちはこの素晴らしいコミュニケーションに目を止め、観想の喜びの内に私たちにこれを伝達された方を見出さなければならないだろう。# 『サンチャゴの師』の中でアンリ・ド・モシテルランはアルヴァロに言わせた。「神は欲することも探すこともされない。神は永遠の静寂だ。何も欲しないことによってお前は神を反映するだろう」と。だが聖書はそのようには神を示していない。みことばの神は創造の主である。この神は夜明け前に起きて活動される。しかし、人間よりも先にではない。人間は神の朝一番の、最初の考え、神の最高のご計画だから。#≪御子は目に見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも・・・万物は御子において造られたからです。≫(コロサイ1:15-16) #神の幸福と栄光のためには三位一体内で神が自ら行われる永遠で無限のコミュニケーションだけで完全で十分だろう。永遠の愛はこの至上の本質的コミュニケーションにその完成と充足を持っておられる。神の尺度での唯一の幸とは、永遠に御子を生み出すこと。だが幸いなるかな!聖三位一体の神はその幸を分かち合うことを望まれた。三位一体はその愛の秘義と喜びを、自由に優しく創造することによって「外に」広め、「ご自分の外に」ご自身を伝え、存在という神の大いなる喜びに参与させる思いを抱かれた。こうして今、我々多数の被造物が、最愛の御子の誕生においてご自身を与える神の永遠の祝祭に与ることが出来ることとなった。これは無限の愛の充満。世はそこから発出した。そこからまず最初に人間が現れた。】

* そこで神は日毎にご自身の活動よりも前に人間の活動を始めることを願われた。神より前に独りで考え行動する自由。だから人間は自由なのだ。その自由なる存在としての人間の活動は神にも悪魔にも与することができるが、本来の神の人である人間は【永遠の愛から】生み出された存在であり、その元型は御独り子イエス・キリストにある。御子は神が愛をもって生み出した最初の存在であることが、上記のコロサイ書1:15以下に書かれている。その元型の下に創造された存在として、人間は最初の霊的光の下、おのずと光なる善に全身を向ける存在である。闇なる悪魔を本能的に嫌う存在である。
    
@ 愛は闇を照らす光である。神の宣言される平和は闇の払しょく後に来る。 だから、我々も何度でも不死鳥のように再登場して来るDS悪党たちに希望を挫折されるのでなく、むしろ、神ご自身が最初そうされたように、永遠の愛から世界の平和を願う人間の創造性から生み出された、悪魔とその配下の悪人たちの炙り出しという大きな戦略の一環としての作戦であることを理解するなら、今後、2.0に注目してよく観察し、その醜悪さをおおいに宣伝すべきである。

💓 神の平和宣言の内実を詩家は引き続き歌っている。≪主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地に留まる。慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし、まことは地から萌え出で/正義は天から注がれる。主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらす。 正義は御前を行き/主の進まれる道を備える。≫ 主の平和を願おう!
    
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