アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/13(木) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/13(木) 💖💓💛💖🌈
 
● 第二日課:2コリント5:6-10,14-17
 5:6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

:今週のテーマ【生命の樹】

【聖句断章】 5:6
それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
    
@ 今週のテーマ【生命の樹】との関係性

* 【生命の樹】に繋がっている者は「心強い」。パウロは今日のテキスト宙に二度「心強い」と連発している。それほど彼はそれを強調したかった。生命の樹に繋がっている人の命は「心強い」とは、確かに彼自身の経験の言葉である。だからこそ思わず繰り返す。

* その「心強い」であるが、その原語を紐解くと、θαρρέω タッレウォー: to be of good courage, to be hopeful, confident: 2 Corinthians 5:6, 8 ;とあった。「確信を持っている」「希望を抱いている」「勇気を得ている」等々。その希望とは天の住処に帰って主と共にある希望である。だが今はいずれにしても、その境地には成っていない。むしろ、天に召される時まで、それに向かって成長して行こうと、共に励まし合っている。

* キリスト者にとって死とは何か? 永遠の終わりではない。キリスト教葬儀の時に私たちはそのことをいつも新たに思い起こされ、励まされる。パウロの今日の言葉で言えば、「心強い」。死とは神との一致への最後の関門である。

* パウロのキリスト教は、【深奥のキリスト教】とでも名付けるべきであろうと思う。それは、見えない世界の宇宙的背景放射に支えられている。その起源は彼が復活のキリストと出会ったところから始まった。それまでのパウロはファリサイ派の律法学者だった。そこには神との深い一致はなかった。復活のキリストに出会った時、パウロは神の御子に出会ったのだ。それまでは唯一の神以外を神としてはならない、との掟に縛られて、一人の人間を神とすることは考えの内に入ることはあり得なかった。だが今、キリストは神の御子としてパウロに実際に出会われた。その経験は決して揺らぐことはない正真正銘の神からの啓示だった。

* それ以来、彼の死生観にキリストとの再会が含まれるようになった。死は 全てを虚しくする終わりではなくなった。死は主との再会の喜ばしいゴールとなった。この死の位置づけの転換は人類の思考の中で大きな意義のある画期的な出来事だった。死はもはや悪魔の脅しの最終兵器ではなくなり、逆に、神との一致の最終関門となった。人智では測りえぬ深さの宗教への劇的圧倒的奇跡的転換である。パウロのキリスト教においてはじめて、死が究極の希望となった。それは、神の為さった事で、我々には不思議な出来事である。

* パウロはその希望をしっかりと保持しつつ、残りの生涯をその託された使命を全うしながら、そのゴールを目指して身を乗り出して待ち望む生き方を全うする。パウロは常日頃繰り返して強調している。目に見える希望は希望ではない。目に見えない希望こそ真の希望に価する永遠の希望である。人間は霊的存在としてそのような希望を魂の内に宿す神の子である。主との究極的一致、神の子としての完成が人間性を一貫して方向づける。

*  だが今、【体を住みかとしている今生】においてはいずれにしてもその一致からは離れている状態で、【呻き】の生を生きている。私たちの内に宿っておられる聖霊もそれを受けて、私たちのために共に呻いておられるとさえ言う。パウロのキリスト教は徹底して神的霊的である。

@ それに猛烈に反対したのが、パウロの生きた紀元1世紀中葉において既に活発に教会内で活動していた、いわゆるグノーシス主義者と呼ばれる人々であった。彼らのパウロ理解を昨日の翻訳箇所から引用する。≪* キリスト教グノーシス主義は・・・イエスの神性をローマとコンスタンティヌスに対する法外な影響力を行使したパウロの分派によって起こったと信じている。グノーシス主義者はイエスが神の御子とされたのはニケア公会議以後であると信じている。ニケア公会議で司教たちが神的身分にまで高く挙げられたイエスに投票して、元々のメッセージだと彼らが言うものとイエスの教会を乗っ取ったと信じている㊺。コンスタンティヌスはニケアで紀元325年に設立されたこの(新たな)統一的定義とキリスト教の教理に同意する者のみに財政支援した。≫ それに対して≪グノーシス主義はイエスを、言/人の子/メシア/キリストと認めることも、処女降誕も復活も認めることもない。≫ つまり彼らの「キリスト教」は人間イエスの「キリスト教」であり、イエスの神性を否定する「キリスト教」であった。パウロが活動していた時からニケア公会議までおよそ300年、その間、グノーシス主義の分派とニケア公会議で正統派となるキリスト教の間に霊の戦いが続いていたことになる。

* 今私たちは神との一致を目指ゴールとして、今生を生きている。それは今生と彼岸は区別される。だからこそ、そこに呻きのような動きが生み出される。ニケア正統派が勝利したことはたまたまの偶然ではない。全ては神のご計画の下にある。

* ≪だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。≫  【新しく創造された者】とは神によって新しく生まれた者である。神性を取り除いたキリスト教はもはやキリスト教ではない。しかし現今の教会においてヒューマニズムキリスト教が盛んであり、キリストの神性を理解しない教職信徒が増えていることを大いに危惧する。

💓 私たちは確信をもって明日に向かって身を乗り出して生きて行こう。

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