アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/04/03 (水) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/04/03 (水) 💖💓💛💖🌈
 翻訳:水曜特番
Genesis 6 Conspiracy : How Secret Societies and The Descendants of Giants plan to enslave Humankind
 by  Gary Wayne  2014 imprint of Deep River Books
 『創世記6章陰謀 :秘密結社と巨人の子孫たちの人類奴隷化計画』
~~~~~~~~~~~~~~

 

第三部 【アナクの子孫たち : その血脈と契約 】

♠ 第36章「サウル王とダビデ王」

 

============================


≪あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。≫ 申命記17:14-15


* 何故アマレク絶滅は直ちに実行されなかったのか? 何故神はイスラエルがその法的委任を実行するのを他の敵から解放されて平安を得るまで待つように命じたのか?❶

* この解放の時はかなり先まで来なかった。神の裁きが出エジプトの時から響き始め、征服の前にも響いていたからである。神は、この解放の時が来て、民が他の国々のように王を求めた時、その王はイスラエル人の王でなければならなず、いかなる外国の王のような王であってはならないと命じた。王は巨万の富を築いてはならない。エジプトに帰ってはならない。重婚者であってもならない。また自分が他のイスラエルよりも偉いと思ってもならない。王はこれらの律法の写しをつくり、毎日それを読まなければならない。そうすれば王の子らは長く治めることができるであろう(申命記17:14-20)。これはみな、他の民族のネフィリム王が反逆を原理として選び、重婚者であったことに対する真っ向からの抵抗として命じられた。イスラエルの王制の最初を担ったのはまずサウル王であり、その後ダビデ王がそれを担った。

* ユダヤの伝説によると、サウルは記録的な軍事的力量によって選ばれた。サウルはあの有名なゴリアトから律法の板を取り戻し、ゴリアテに生涯忘れることのできない屈辱を与えた❷。コーランは、タルト/サウルに対する神の寵愛のしるしが、彼がゴリアトとその軍と戦って少数の忠実な戦士たちと共にペリシテ軍を破り、律法の板の入っている契約の箱を取り戻したことと、彼への王権授与だったと記している❸。サウルは最も勇猛なイスラエル人で古の超絶的英雄だったことによって王とされた❹。彼は背が高く、容姿端麗であり、ライオンのように強かった。サウルの元々の名は 「Yaw(weh)の偉大なライオン」を意味するラバヤLabaya だったが、イスラエルの民が他の国々のようになりたいと神に願って王を求めたので、「求められる」を意味するサウル Saulに名が改められた❺。

* 聖書はサウルが他の誰よりも頭一つ高い誰よりも大きかったと記している❻。彼は非常にハンサムで、際立って温和で純心であり、メシアの血統の良い家系の出身だった❼。マトリ族出身の高位首長、アビエルの子キシュの息子だった❽、アビエルはゼロルの子、ゼロルはベコラトの子、ベコラトはアフィアの子、アフィアはベニヤミンの子である❾。

* サムエルが年老いた時、サムエルの息子たちが士師の務めを果たすのに相応しくなかったので、民は他の国々のように彼らを導く王を求めた❿。コーランは、イスラエルは神の戦いを導くために預言者サムエルに王を求めたと記している⓫。かくして、タルト/サウルが王として宣言された。タルトとはサウルのアラビア語である⓬。

* ピンスキーは、サウルが背が高く強い戦士だったことから民が彼を王として求めたのであり、サムエルが選んだのではないと書いている⓭。サウルを選んだのは神であった。神によって選ばれ、サウルが油注ぎのためにサムエルのところに送られ、イスラエルをペリシテの抑圧から解放するために徴用された⓮。ピンスキーはサムエルはサウルのうちにリーダーの才を見たと書いているが、その才は、残酷さであり、容易く殺害し、嘘をつき、政策遂行の名によって強奪し、反目する者を互いに寵愛して弄ぶ才能だった。サムエルはサウルに油を注いだが、しかしサウルはあらゆる点でサムエルの立脚点と正反対の人物だった⓯。サムエルは王を持つことに反対して、王は絶えず戦争をし、民の息子たちを取り上げ、最良の娘たちを取り上げ、土地を取り上げ、食料や武器の交易をして、軍隊を養い、全収入の十分の一を徴税すると警鐘を鳴らした⓰。その上、サウル王は富をあまり持っていないとことだけで貴族のバックを持っていなかった⓱。

* ラバヤはたぶんLab’ Ayyuラブアユのことである。世俗制度はラブアユが中東の民を導いたと信じている(はっきり分からない)Apiruアピルのことであろう⓲。アマルナ文書とエジプト書簡は、エルサレムと南部のゲゼル、メギドとイズレール渓谷と、その北まで予想以上に広大な地を支配していた北部高原の町シケムの君主ラバヤのことを記している。アマルナ書簡はラバヤが南のアピルと同盟して帝国の安寧を図っていたことを暗示している。アピルはHabiruハビルと音訳されたりもする⓳。ハビルは紀元前3千年紀末頃、それはたぶんアブラハムの到来の年代であるが、中東からカナンに到来した流浪の族長だったというのが学会の定説である。彼らはエジプトの資料ではアピル、メソポタミアの資料ではアビルと記されたセム人傭兵だった⓴。確かにアブラハムは四王に対する五王の戦いでの軍事的な大胆さ、ソドム王の傭兵としての活動、カナン人との頻繁な紛争においてよく知られていた㉑。

* シケムは神がアブラハムの子孫たちに約束の地として約束した町で、エフライム山地でアブラハムが祭壇を築いた場所であり㉒、ヤコブがパダンアラムからの帰路、祭壇を築いた所であり㉓、また、そこでヒビ人の君たちがディナをレイプしたためにヤコブの息子たちが彼らを皆殺しにした場所であった㉔。ヤコブはその地で意義深い土地を手に入れ、それをヨセフと彼の子孫たちに遺贈した㉕。のちにヨシュアが征服後シケムで神との契約を更新した㉖。そののち契約は年ごとにその地で更新された㉗。ヨシュアはまたシケムをヨセフの息子たちマナセとエフライムの割り当ての地として与えた㉘。シケムはエジプトから持ち帰られたヨセフとヤコブの遺体がアブラハムが買った墓地に葬られた所である㉙。

* 考古学はシケムがテル・バラトTell Barathであり、紀元前1400-1200年には非常に繫栄した町だったことを示している㉚。シケムは紀元前1150年にイスラエルの士師アビメレクがBaal-Berithバアル・ベリトの家を滅ぼした場所である。後の時代、ソロモン王の後継者レハブアム王はシケムで戴冠して全イスラエルの王となった㉜。その直ぐ後で、ヤロブアム王がユダとレハブアムに反旗を翻して離反した時、ヤロブアム王はシケムを補強して北イスラエルの首都とした㉝。

* アピルは紀元前14世紀のアマルナ書簡の記録に残っている。歴史家たちは、アピルがエジプトの力の及ばないヘブライ人(ユダ)であり、エルサレムのAbdi Hedaアブディ・ヘタ王の宿敵だったと考えている。アピルは紀元前10世紀までは記録にあるが、その後不思議にも記録からなくなった。おそらくサウル後のダビデによる権力掌握がその理由であろう。アピルはそれ以後、エルサレムを含む新たに拡大されたイスラエルの中に組み込まれたのであろう。アマルナ書簡はアピルを「謀反を起こす危険な殺人者」と記しており、紀元前10世紀に強い男がヘブロンから現れ、エルサレムを占拠したことを記している㉞。これはおそらくダビデの権力掌握についての異邦人側からの記録であろう。中東のドラゴン王朝にとってこのイスラエルの王は不法な野蛮人と映っていたようである。

* ダビデの樹立した王朝に関する考古学的記録はせいぜい小さな扱いで、多くの学者はダビデを全くの神話として片づけている。だが1993年に古代都市ダンの遺跡から発見された紀元前9世紀のアラム語碑文に「ダビデ家」の語がはっきりと記されている㉟。この考古学的記録やその他既に明らかになった記録は、一神教の諸聖典とダビデが西洋社会に残した永続的なダビデの刻印と相まって、ダビデ王朝の現実性を証言している。今日ダビデ王朝やサウル王朝の歴史的実在を否定する真に具体的な理由は何もない。

* サウルを王として取り除く理由として後に聖書の伝説が引用した理由は、アマレク人を天の下から滅ぼし尽くすという彼の王契約を破ったこと以外には何もなかった。要するにサウルは支配者として温和すぎたのだ。だがもっと重要な理由は、彼の王家としての血統の華麗さを貴族たちが恐れたためだった。貴族はサウルの子孫が高慢不遜に成ることを恐れた㊱。サウルの血統にはエフドやギデオンのような名高い士師もおり、族長や部族の首長の長い列があった㊳。

* サウルに油を注いだ時、サムエルはイスラエルにアマレクの絶滅を改めて命じた㊴。男も女も子供も幼子も誰もそれから免れてはならない。イスラエルはアマレクの持っていたものは家畜やどんな動物も免じてはならない。アマレクの所有物も略奪してはならない。アマレクのものは全て滅ぼし尽くされ、アマレクの名と記憶が天の下から拭い去られなければならない。これら全ては全能の神の名において実行されなければならなかった。この命令が如何なる理由においても混乱させられてはならなかった。神からの命令はいつも神が命じたまま正確に実行されねばならない。一たび全能者が語れば、誰が全知者に逆らうことができよう?

* その答えは明らかだと思わるが、しかし神の裁きは命令通りには実行されなかった。完全な従順がなかったことはサウルと彼のベニヤミン族の子孫に様々な結果をもたらした。だが忘れてはならないのは、サウルがアマレクと戦ったのは彼の王契約に強いられたからこそだったことである。それ故、ギンズバーグはサウルが戦利品を取って置くことにやすやすと説得されたのは神との契約違反だったと記している㊵。サウルが全アマレクを地の上から完全な抹殺することを完全に手がけたことは一度もなかった。

* 考えを整理しよう。アマレクは中東の二か所を占拠していた。アマレクは契約の地の真南のシナイ地方と、イスラエルの真東とやや北東の西メソポタミア地域に住んでいた。サウルが攻撃目標として選んだのは南のアマレク人だった。イスラエルは圧倒的な勝利をおさめ、アマレク人を見つけ次第殺戮した。ヨセフスはサウルが紅海に至るエジプトのペルジウム地域でアマレクを撃破したと記し㊶、サムエル記がサウルはエジプトに至るシュル地域でアマレクを破ったことを語ってそれを裏付けている㊷。

* サウルはアマレク人の幾人かを殺戮から除外することを選んだ。その中には価値ある略奪動物と共にアマレクの王アガグもいた㊸。サウルがアガグ王を助けたのはアガグが背が高くハンサムなことを賞賛したためであった㊹。サウル自身も非常に大きな戦士だったので、サウルがアガグの背が非常に高かったと認めたのなら、アガグの大きさは実際どれほどだったのだろうか? アガグの名は洪水時代のアナクの息子のネフィリム王にちなんで名付けられた㊺。それは疑いもなくアマレクの王たちにネフィリムの血が流れていたことを示している。

* サウルの油注ぎの時に発せられた神の義なる命令を破ることは、たとえその理由が何であれ、何もなしで済ませられることではなかった。アガグの命を助けたことは幾世紀も後の捕囚のユダヤの民の迫害の引き金となった。ユダヤの伝説にアガグの直系として載っているアガグ人ハマンはペルシャの支配の下にあったユダヤ人の残りの者を地上から抹殺する陰謀を企てた㊻。

* サムエルは当然サウルの罪を𠮟責し、永遠の神の王国がサウルのベニヤミン族に続くことはないと宣言した㊼。神はサウルの失策の当然の罰として息子達のイスラエル王の継承権を取り除き、メシアの家系から排除した㊽。サウルは生きている間は王に留まることを許されたが、それはもはや彼の血統から芽生えたイスラエルの王朝ではなかった。メシアの血統と永遠の王座は、元々創世記に預言されていたように、ユダ族に移し変えられた㊾。

* 皮肉にもサウルのアマレク人への憐れみと同情が最終的に彼の死へと繋がった。ロールによれば、後のペリシテ人との戦いでサウル軍の後陣を守っていたのはアマレク人の近衛兵だった㊿。ペリシテ人アキシュとの大きな戦いを前に、アキシュは傭兵ダビデを去らせた。ペリシテの武将たちが自分たちとの戦いでダビデと彼の部下たちを信用しなかったからである(51)。その戦いでアマレクはサウルを裏切り、ペリシテ軍にイスラエルの包囲攻撃を許し、サウルは傷を負った(52)。この戦いはイスラエルがギルボア山でペリシテ軍の前に敗走した戦いで、ペリシテ軍はサウルと彼の息子たちを激しく追撃した。その時サウルは自らの剣の上に倒れて自決した(53)。

* サウルと息子たちの遺体はベト・シャンでペリシテ人によって無残に晒されたが、後にギレアドのヤベシュの市民によって盗まれた(54)。ペリシテ人はサウルから武具を脱がし、首をはね、彼の首と武具をダゴンの神殿に吊るした。ダゴンはいくつかの神話でバアルの父である(55)。ヤベシュの勇敢な男たちがサウルと息子たちの骨をヤベシュに連れ戻し(56)、最終的にダビデがサウルと息子ヨナタンの骨を接収して、ベニヤミンの地ツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬った(57)。

* ペリシテ軍との戦いの時にはサムエルは既に亡くなっていた。サウルは墓の中からサムエルを口寄せによって呼び戻し、サムエルの霊にペリシテ軍との戦いに勝利することを願った。しかしサムエルの霊は怒って、アマレクを滅ぼし尽くさなかったことでサウルを再度非難しイスラエルはペリシテに敗れ、サウルはその戦いで死ぬことを予言した(58)。 ≪サウルは、主に背いた罪のため、主の言葉を守らず、かえって口寄せに伺いを立てたために死んだ。彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに渡された。≫ 歴代誌上10:13-14

* サウルとアガグとの戦闘が終わった今、サムエルは神の裁きの成就を確実にするためにいくつかの手筈を自らの手で行った。サムエルは自らの手でアガグを殺し(59)、それから、イスラエルの新しい将来の王、ユダ族のエッサイの子 若きダビデに油を注いだ。神的義務を成就し、サウル家に代わって王朝を継ぐためであった(60)。ダビデはサウルの死後王座に就いた(61)。ダビデはサウルがまだ生きて王である間に新しい王としての委託を受けた。だがそのことがサウルのダビデに対する激しい嫉妬を治世中燃え上がらせた(62)。

* サウルがアマレクを完全に絶滅しなかったのは明かである。サムエル書にはダビデがアマレクと戦い(2サムエル8:12)、ツィクラグで彼らを滅ぼしたと記されている(1サムエル30:1-31)。ダビデは南部ではどちらかと言えば掃討作戦を行ったが、東アマレク人に対しては絶滅戦争を行ったに違いない。聖書にはあまり詳細に記されていないが、ダビデがアマレクを滅ぼしたことは明かである(63)。他の伝説がヨアブの冒険とアマレクの都の絶滅について描いている(64)。たしかにサムエル書上はダビデがアマレクを全て打ち破ったことを強調しており、KJVは完全な「アマレク人の虐殺」と、この勝利を記している(2サムエル1:1)。

* ダビデが本当に彼の法的義務を果たしたことに疑いがあるなら、詩篇9:4-8がそれを解決してくれる。

  ≪御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。≫

* この句節はアマレクに対してしか解釈出来ず、アマレクのことを言っている。このネフィリムの民以外にその記憶が永遠に消し去られたことはない。征服時に他の民族が神座からの裁きを受けたことはない。その時代の他の民族に永遠の廃墟という怒りが注がれたことはない。この句節は邪悪で堕落した両民族ににのみ適用できる。両民族こそがまさにモーセと神が宣言した神の裁きだった。その両民族とはアマレクである。

* ユダのヘゼキア王の治世にシメオン人イシュイの息子たちがセイルの山地に侵攻し、逃れて生き残っていたアマレク人を打ち殺した(65)。この最終的な一撃はダビデのアマレクに対する民族絶滅的追放から生き延びた文化と社会に終止符を打った。

* 我々はバビロン捕囚時のアマレク人の生き残りをエステル記のアガグ人ハマンにおいて聞いている(66)が、歴史も聖書もアマレクを民族として記録することは二度となかった。世俗史はアマレクなど存在しなかったかのように忘れており、聖書だけが世界に対してその存在の証言を保持している。アマレクは単に地の表から根絶されただけではなく、神の裁きが求めたように、天の下の記憶から拭い去られ、完全に廃墟とされた。アマレクの生き残りは古代の様々な民族の中へと失われた。

* ダビデによるアマレクに関する法的義務が完了した今、我々はダビデの他の法的義務を検証しなければならない。それは他のネフィリムに関するものだった。アマレクも他のネフィリムの残りの者もダビデ時代に至るまで生き残っていた。ネフィリムの子孫アビブ人はまだペリシテ人の住むガザ地域に住んでいた。ダビデは大枠として同時代のアマレクとネフィリム両方に対する神の剣の最終執行者だった。ネフィリムとダビデの年代記はゴリアト伝説を含むもう一つの物語である。この全てとさらに多くの事が次の諸章に残される。

* 失われたアマレク民族の真の正体について言えば、アマレクはホリ人の一部だったことが論理的帰結として支持される。ホリ人が南アマレク人の地セイルに住んでいたことを思い出してほしい。さらに、アマレク人は昔からシュルからエジプトに住んでいた古い民族である(67)。民族表にセイルの父の記載がないことはおかしい。だが民族表はエドム人より先にセイルに入植してそこに住んでいたホリ人の父としてセイルを記載している(68)。つまり、セイルはホリ人/アマレク人/ネフィリムの首長だった。

* セイルSeirは「毛深い」を意味するse-arから来ている。ギルガメシュ叙事詩の巨人エンキドゥも毛深かった(69)。「毛深い」はまた、シュメール民話の有名な王朝、アヌンナキ王Nergalネルガルと王女Eresh-kigalエレシュ・キガルの間の子Luluwaルルヴァの子孫の王朝の描写として適用されている(70)。ネフィリムは、エサウがそうであったように、毛深い荒い肌をしていたと信じられていた(71)。民数記13章にはアマレク人がアナクの子孫として登場しており(72)、創世記14章にはアマレク人もケドルラオメルに打ち負かされた巨人族に含まれている(73)。

* レファイムがホリ人として原住民と見なされていたように、アマレクもセイルの原住民ホリ人と混血し、大アマレク族を形成した。ホリ人はフリ人と非常に近親の非セム系であり、両者とも語源的に初期の洞窟居住者と繋がっている。さらに、NuziヌチとMariマリで発見されたフリ人/ホリ人の石板が(同様に重要な)ミタンニ王国とこのよく分からない民族とを神秘的に結びつけている(74)。

* これらの結びつきはアマレク人がアマレクと混血する前の純粋のアナク人の流れを汲んだレファイムの別種族だったことを暗示する。アマレク人は始祖をセイルとする洪水前ネフィリムのもう一つの生き残りだったのかもしれない。このことはアマレクの洪水前の呼び名を再検討するともっと明かになるだろう。

* 洪水前のネフィリムの名前の中にアマレクの名も載っている。彼はSamaelサマエルの双子の兄弟としてされている(75)。セイルの始祖であるアマレクを洪水前まで辿れば、実際の洪水前の巨人に行き着く。アマレクが有名な洪水前のシュメール王Akalum-Dugアカルム・ダグだったとする別の伝承もある。そうするとアカルムがあの悪名高い悪人「レメク」のシュメール版であり、レメクから真のアナグラムとしてアマレクが生まれ(76)、洪水前のシュメール王は全てネフィリムだったとの理解に達する。

* もう一つ、アマレクとつながる王の別名がある。それはAnam’ Melechアナム・メレクで、その発音は"a-nam-ell-lek"ア・ナム・エル・レクである。アナム・メレクはSepharvaimセファルヴァイムの町のバビロニア人に礼拝されていた。後に学ぶようにメレクは「王」を意味するヘブライ語であり、カナン人の神バアルの息子Molech/Malechモレク/マレクとしてその礼拝において幼児犠牲を求めた。アナム・メレクは「Anuアヌは王」の意味であり、アヌとはもちろん、アヌンナキの父、大いなる天空の神である。モロクのようにアナム・メレクも幼児犠牲を要求した(77)。アナム・メレクは神秘的なモロク神なのだろうか? これはおそらく野蛮な巨大なネフィリム半神と同じアマレク/レメクのもう一つの別称でだろう。

* 洪水前の巨大なアマレクの双子の兄弟がサマエルだった。サマエルの妻のひとりNaamahナアマは売春の天使で悪霊たちの母と考えられていた(78)。巨人サマエルはこの天使サマエルとナアマとの子孫にちがいない。ナアマはレメク(アマレク)の娘で、トバルカインの妹であり(79)、ここでもまた、カインの娘たちの男たちとネフィリムの結びつきがアマレク人の起源とネフィリムにしっかりと結びつている。アマレク人の名は彼ら自身がエサウ族の一部族アマレクの子孫と混血した彼らの祖先ネフィリムとカイン人にちなんで付けた名である。

**********************
次回:第37章「ダビデとゴリアト」
😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄