クラシック音楽と多様性
ちょっと見かけたツイート。 作曲者本人直伝の解釈をなるべく後世に正しく受け継ごうという姿勢は、実のところクラシック音楽的ではないと思うんですよね。誤解にまみれた解釈も含めて、ひとつの楽曲の多様な可能性を楽しもうという姿勢こそがクラシック音楽的だし、それがこのジャンルを延命させる大きな原動力になっている。— 小室 敬幸[音楽ライター/映画音楽評論家] (@TakayukiKomuro) October 4, 2022 むしろ作曲者が意図した通りの演奏以外だと、この曲の魅力が伝わらない……というのは結果的にいえば作品としての強度が足りないということなのです。クラシック音楽の世界で真に求められている作品像は、構築性と完成度の高い作品ではなく、多様な演奏解釈が可能な作品。 https://t.co/qCz6bcsPb6— 小室 敬幸[音楽ライター/映画音楽評論家] (@TakayukiKomuro) October 4, 2022クラシック音楽は多様性の芸術なんだ!という小室さんのツイート。この解釈で多少タイムラインが荒れていたので、自分はどう考えているんだろう?と振り返ってみたのです。~~~音楽に限らず、芸術作品のどこに何をどう感じ、重ねるかは、芸術に触れる個々に委ねられて然るべきだとは思う。 どんなに学術的、もしくは歴史的な「答え」があったとしても、作曲家がその音に何を重ねてたかなんて推察の域を出ない。例え作者本人が「ここは〇〇の景色をイメージした」と言ってても、それはあくまで作者というフィルターを通した景色でしかない。 演者も聴衆も完全に同じ景色を見ることなんてできない。 どんな天気で、気持ちで、周りに誰がいたのか。そんな描かれない余白に人々は共感するんじゃないかなぁ。そういう意味では、作者直伝の解釈が必ずしも第一優先である必要はないと思う。演者として一番大切なのは、作者が観た景色をそのまま描くことではなくて、自分の想像力と共にその感動をもう一度伝えることなんだと思う。それには作者の語らない余白の部分を感じ取らないといけない。そういう余白こそが伝統芸術の一番魅力的な部分で、最も「多様性」を感じられる部分だと個人的には思う。ただその上で、もしくはそうした様々な思考を経た上で、演者として求める演技・演奏というのは自ずと決まってくるんだろうな。だから、聴衆が観ている「多様性」はそこへ至る道のりなのかもね。~~~という、こういう真面目なことをツイートすると頭痛くなるんだけど(笑)、でもちょっと自分でも大切にしていきたいなぁと思う部分であったりするので、ブログに貼り付けておく。