茶人などを数寄者と呼んだ。
数寄は好きに通じる。そこにあるのは自分という主体。愛や情も自分が主体としてある。
鴨長明「方丈記」の時代に、好きが荒ぶに変化、昇華される。主体は荒れたり崩れたりしていく。しかし、主体は自らを保とうとする。好きなものと生きる。たとえそれが荒れたり崩れたりしたものであっても。これが「荒び」
さらに時代が下って吉田兼好の「徒然草」の頃になると、荒びは「さび」に変化する。主体も、客体もない。極めて洗練された精神状態が寂である。これがのちの茶の湯などの文化に繋がっていく。
老成する、荒ぶ、というのは洗練されるということなんですね。ということは若さを求める現代社会は子供集団であると言えます。
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