実は、田窪一世という名前は芸名で、
僕の本名は渡辺一司と言います。
映画館を経営していた母方の一族の名字が「田窪」で、
30歳の時、事務所に所属させてもらえることになったときに、
心機一転、母方の名字と、
僕が生まれる時にもうひとつの候補だった、
「一世」をくっつけて「田窪一世」としました。
先日、テレビで名字のルーツを扱った番組があり、
「渡辺」が取り上げられていました。
はなはだ個人的ですが、とても興味深い内容だったので、
内容を書き残しておきたいと思います。
名字ランキング全国5位、日本中に約115万人いる渡辺さん。
渡辺、渡部、渡邊、渡邉、書き方は違っても、
実はどの渡辺さんもルーツは同じなのだそうです。
いわば全国の渡辺さんは全員親戚のようなものです。
渡辺さんのルーツは「渡辺」という地名です。
その場所はたったひとつ、
大阪の堂島川、
そこに架かるひとつの橋に渡辺橋という橋があります。
その橋は平安時代にはすでに架かっていた橋で、
そのあたりはかつて摂津国西成郡渡辺というところでした。
初めての渡辺さんは953年平安時代中期、
武蔵の国(現在の東京埼玉あたり)に、
源氏の血を引く伝説の人物が生まれました。
その名は源綱。(みなもとのつな)
東京港区三田、慶応大学の近くに綱坂という坂があり、
このあたりで源綱が生まれたという伝説が残っています。
そして成長した彼が移り住んだのが、
母親の郷里である摂津の国渡辺だったのです。
渡辺という地に住んだのも何かの縁、
そこで綱はそれ以後渡辺と名乗りました。
渡辺綱(わたなべのつな)となった彼は、
その後、数々の伝説を残しています。
もっとも有名な伝説が京の都を荒らす鬼を相手に、
現在、北野天満宮に所蔵されている重要文化財、
鬼切丸という刀で、
鬼の片腕を切り取ったという逸話が残っています。
渡辺とは渡しの辺り、
つまり港がある場所を意味しています。
かつて大阪の海岸線には平安京と日本各地を結ぶ、
渡辺津という重要な港があったのです。
渡辺綱の子孫は渡辺の地を拠点に渡辺党という武士団をを結成。
渡辺党は船を自在に操る水軍となり、
源平合戦でも活躍しました。
彼らは船を自由に操り海上を通じて各地へ散らばることで、
渡辺さんは全国に分布していったのです。
かつて渡辺という場所に渡辺橋という橋は残っていても、
渡辺という地名は残っていません。
しかしそこから少し離れた大阪市中央区久太郎町に、
4丁目渡辺という場所があります。
その場所にあったのは、
坐摩(いかすり)神社というひとつの神社でした。
そこの宮司さんのお名前が渡辺さんです。
ここの宮司さんは千年以上前から渡辺さんで、
現代の宮司さんは58代目になるそうです。
実はこの神社はもともとは渡辺という場所にありました。
しかし、豊臣秀吉が大阪城を築城した際、
現在の場所へ移転させられたのだそうです。
そして神社が移転するときに、
渡辺という地名も一緒に付いてきたのだそうです。
実は、母方の一族も愛媛県を根拠地とした、
河野水軍の末裔です。
まだ行ったことはないのですが、
愛媛県のある地域には「田窪」という地名が残っています。
今回、父方、母方、両方のルーツが水軍、
つまり海賊だったとわかってちょっとびっくりでした。
自分のルーツを知るってとても面白い。