サンフランシスコ講和条約発効当時、
日本「本土」には、まだ多数の米軍基地が存在したため、
「本土」と沖縄との基地面積の比率は九対一で、
「本土」の方が圧倒していた。
NHK取材班の調査によれば、日本を占領した海兵隊は、
講和条約発効と同時にいったんすべて米国に撤収したが、
朝鮮戦争勃発と同時に在日米軍兵力の増強が必要となり、
再び日本に戻ってくる。
1953年海兵隊は第三海兵師団として日本「本土」に移転した。
司令部がキャンプ岐阜とキャンプ富士(山梨県)に置かれ、
神奈川県横須賀市、静岡県御殿場市、滋賀県大津市、
奈良県奈良市、大阪府泉市・堺市、
兵庫県神戸市などに部隊が駐留していたことが確認されている。
海兵隊はまず「本土」に分散駐留していたのである。
ところがその後、この海兵隊が沖縄に移駐していく。
なぜ沖縄なのか、
その理由を語る決定的な資料はまだ見出されていない。
しかし、先行研究の多くは、
当時の「本土」各地で米軍基地への反対運動が激化し、
それが反米運動に転化することを、
日米両政府が懸念したことを理由に挙げている。
内灘闘争(石川県)浅間、妙義山闘争(長野県、群馬県)
砂川闘争(東京都)などである。
NHK取材班も、「日本国民の間で高まる反戦感情の要因が、
駐留を続ける米軍である」こと、
また「沖縄が重要な基地になり得る」ことが、
当時のアイゼンハワー政権内での、
共通認識だったと指摘する専門家が多いとした上で、
その一人であるアラン・ミレット博士の証言を紹介している。
「軍の上層部や国務省などは、
日本本土に陸上兵力が駐留し続ければ、
日本を含めた防衛体制の一貫としてではなく、
敵である占領軍として見られ、
日本国民との間に良好な関係を築くことの妨げになる」
そう考えていた。
それを避ける方法はただ一つ。
部隊をしっかり管理し、
可能ならば日本の一般市民から部隊を隔離すること。
そのためには日本本土より、
沖縄の方がやりやすいのは明らかだった。