ワインキング物語-5 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

トマスレイクハリスとはどういう人物か?このサイト「魔術人名録より」に詳しくあるhttp://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/view.html江口 之隆(えぐち これたか、1958年 - )は魔術や隠秘学に関する書籍や雑誌記事を執筆した日本の西洋魔術研究家、オカルト・エッセイスト、翻訳家である。長尾豊(ながお ゆたか)という筆名も用いていた。・・ウィッキより
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日本の幕末の歴史のなかにローレンスオリファントという人物がいる。この幕末の縁において薩摩藩士とハリスの接点が浮かび上がる。
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ウィッキより・・コピーローレンス・オリファント(Laurence Oliphant、1829年 - 1888年12月23日)は英国の作家、旅行家、外交官、神秘主義者。1870年に出版された風刺小説「Piccadilly」の作家として知られるが、後年は心霊主義預言者であるトマス・レイク・ハリスの影響を受けた。
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第一次東禅寺事件。乗馬用の鞭で反撃するオリファント。襖の陰に隠れているのがモリソン。1861年10月12日のイラストレイテド・ロンドン・ニュースに掲載された画だが、これを描いたチャールズ・ワーグマンも事件に遭遇している。エルギン伯がアロー戦争(1856年-1860年)の遠征軍司令官となると、オリファントは個人的秘書として中国に同行した。途中、日本との通商条約を締結するため、一行は1858年7月30日に上海を4隻の艦隊で出発、8月3日(安政5年6月24日)に長崎に到着、8月12日(7月4日)には品川沖に停泊した。8月26日(7月18日)に日英修好通商条約が調印された。およそ1ヶ月前に日米修好通商条約が調印されていたこともあり、交渉は比較的スムーズに進んだが、オリファントはこの際の様子は「エルギン卿遣日使節録」[2]としてまとめ、出版している。

1861年にはラザフォード・オールコックから、在日本英国公使館の一等書記官に任命された。オールコックの休暇帰国中は大理公使を務める予定だった。オリファントは1861年6月の終わりに江戸に到着した。7月5日の早朝、公使館は攘夷派浪士に襲撃された(第一次東禅寺事件)。ピストルは旅行かばんの中に入れたままであったため、オリファントは乗馬用の鞭で立ち向かった。暗闇のため致命的な一撃を受けることはなかったが、数カ所を負傷し、治療のため船に送られた。この事件のため帰国することになったが、オリファントには重要な使命が与えられた。当時江戸幕府は攘夷運動に苦しめられ、新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市延期を求めていた。オールコックはこれに反対の立場であったが、8月14日および8月15日に、オールコック、オリファント、英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープ、老中安藤信正、若年寄酒井忠ますに通訳を加えただけの秘密会談がもたれた。ここでオールコックは日本の内情を理解し、開港延期賛成に回る。帰国するオリファントには、この方針変更を英国政府に伝え、同意を得る役目が与えられた。
オリファントは朝鮮に立ち寄った後に、英国に帰国した。朝鮮ではロシアの軍艦が人里はなれた湾を占領しているのを発見、これを撤退させている。
なお、腕の怪我は完全には治らず、後遺症が残った。
なお、議員引退後の著作「Piccadilly」(1870年)は大成功を収めた。

英国に戻った1865年には、下院議員に選出されたが、議員としての活動に目立ったものはなかった。この頃、心霊主義預言者であるトマス・レイク・ハリス影響をうけるようになる。ハリスは1861年頃に小さな教団「the Brotherhood of the New Life(新生同胞教団)」をエリー湖湖畔のブロックトン(Brocton)に設立していた。ハリスはオリファントに支配的な力を有するようになっており、オリファントは1867年に議員を引退し、ブロックトンに移住する。
 当時、薩摩藩の秘密留学生がロンドンに滞在していたが、親日派と見られたオリファントの下へ、これら留学生が出入りしていた。オリファントは彼ら留学生にハリスの教えを紹介した。結局森有礼ら6人の留学生が、ハリスのコミューンのあるブロックトンへ向かった。