現在カリフォルニアワインが品質の安定したものとして、知られている。
この基礎を作ったのが、1860年代イギリスから渡りアメリカ東部から西部に定住し「ユートピア」を目指した、ある団体であることがわかったが、これがどうして薩摩藩と関係があるのかということも、幕末の動きを読み取ることでわかってきた。
その頃の時代をわかりやすくく整理してみると
1858年英国公使として赴任してきたラザフォードオールコックの部下に書記官のローレンスオリファント。事件が起こり負傷のため帰国してトマスレイクハリスと知り合った。
またスコットランド系の東インド会社と深い「ジャーデンマチソン商会」の日本長崎代理店には、スコットランドアバディーン出身のトーマスブレークグラバーが1859年に赴任した。
英国に帰国しその後に書いたローレンスオリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」を学生時代に読み、東洋日本に関心をしめしていたアーネストメイソンサトウは1862年に英国公使館の通訳に就いた。
1863年グラバーがジャーデンの関係からケズウィックやマチソンと連携し長州藩から「長州五傑」といわれる井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤俊輔・野村弥吉をロンドンに密航させた。
また薩摩藩からは1865年(慶応元年)森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺島宗則らと13歳の磯永彦輔がロンドンに渡り、ロンドン大学に留学というかたちで入ったが、しかし磯永少年はスコットランドのアバディーン・グラマー・スクールに通った、このことはジャーデンマチソン長崎代理店の計らいにてトーマス・ブレーク・グラバーの実家に世話になる。
この幕末の長州藩薩摩藩の若者達が英国に出航できたのも、坂本龍馬の亀山社中とグラバーとの関係があるのがわかった。
これらのうごきにより長澤鼎がサンタローザに定住し、その後ワインキングと呼ばれた。
幕末の南部藩が奥羽越列藩同盟にて、慶応四年1868年戊辰戦争で薩摩長州藩との戦いとなる。