我々は「現実」に触れていないと言われる。
「現実」は我々の触れ得ない所にある。
あるいは、
「触れていないことにしている」
と言った方が正確なのかもしれない。
ちなみにボクはこの
「現実」に触れて「いる」という体験を
「神秘体験=ショック」と呼んでいる。
単にリアルと呼んでもいいだろうか。
この体験の肯定的なものが我々の生を肯定的に支え、
否定的なものがトラウマ化するとボクは仮説している*。
我々は常に「神秘体験(ショック)」の中にいる。
さて、どういうことだろうか。
結果の事態から話そうと思う。
我々と「現実」との間には、ある「緩衝器」が挟まっている。
(現代では単に脳の機能とされるのかもしれない)
これはショックを和らげようと発達した器械である。
この緩衝器を心理学では「自我」と呼んでいるのだとボクは考えている。
もちろんこの緩衝器は「私」を守っているとも言える。
守っている、、はずだった。
しかし、
やがてこの緩衝器は肥大化、
全てをスポンジのように飲み込み、
苦痛と向き合わないための代替案をひたすらに構築、
あらゆるトリックを使って自分自身を騙し、
果てはまるで自分そのものかのように振る舞っている。
鏡に映るハリボテを見よ。
お前は誰だ!
この緩衝器はしかしハリボテに違いない。
そのハリボテをいくら高級に仕立てようと思ってもそれはどうか。
暗黒を避けては通れないとボクは思う。
ではなぜ、我々は<ショック>を手放しで受け入れる勇気を失ったのか。
なぜそこまで傷ついてしまったのか。
我々はショックをショックとして受け止める容量がないと
自分自身に嘘を付いている。
ショックを受けているくせに受けていないかような顔が出来るようになった。
ショックを受けていないくせに受けているかのように振る舞えるようになった。
それが大人になることのように思っていたし、思わされた。
ボクの中学校は、男子は坊主という決まりだったw
小学生最後の日、床屋でバリカンを入れられる自分を大きな鏡で見ながら、
ぽろぽろと涙がこぼれたのを覚えている。
髪は身体の一部である。
子供は素直だ。
なぜ大人はこれほどまでに鈍重で野蛮になったのか。
傷つかないために、何かを忘却し、諦めたのだ。
傷つかない努力をしても結局は無駄なのに。。
ボクらは傷つく勇気さえ失ってしまったのか。
『OUR DAILY BREAD』(邦題・いのちの食べかた)
そのニヒリズムを動力にした科学技術主義は、
「自分」たちが眠り惚けている間に制度化され、
この惑星帝国主義*を作り上げている。
ニヒリズムが動力になるとはなんと皮肉なことだろう。
いつの間にかコンビニにはぎっしりとお弁当たちが積まれている。。
そしてこれがまずまずウマい。 が、
これはハリボテを高級にしようとしているのとどこか似てはいないか。
さらに近くのドラッグストアにはぎっしりと、、
人類は途方もなく終わっているとボクは思う。
我々が暗黒を避けて通れないのは道理だ。
フリは出来る。
それが緩衝器の役割なのだ。
ボクがなぜ哲学性が大事だと思うのか。
哲学とは「問い」である。
クリシュナムルティ*は自分のことを「否定の炎」と呼んだ。
これは激しい呼び名だが、問う姿勢のことだとボクは考えている。
「問い」とは勇気と言えるのかもしれない。
「問いを捨てろ」という安易な神秘主義の足音がボクには聞こえる。。
確かに「他者」というものは並外れて近付き難い。
「私の中の他者」もそうだ。
だって地雷(トラウマ)だらけなんだもん。
しかしそのトラウマは、
我々の言語活動を通して、
何度も何度も姿を変え偽装して回帰して来る。
我々は暗黒を避けては通れないのだ。
芸術はその明らかな証左だとボクは思う。
だからこそ黒光りして美しい。
<共感>というものがまず不可能に近いということを、
認識し受け入れなくてはならないことは確かだ。
(ボクはこれを「0.1%の共感」と呼んでいる)
けどあらためて、なぜ、
わざわざそんなことを認識しなければならないのか。
それはわたしたちが「出会う」からではなかったか。
「出会いたい」からではなかったのか。
出会っているのに出会っていないかのような顔をするのはもうたくさんだ。
出会っていないのに出会っているかのように振る舞うのはもうたくさんだ。
その共感の可能性という0.1%のモチベーションは、
99.9%のニヒリズムをひっくり返す肯定力を持っているというのが
ボクの直観である。
それはもはや絶望の先に訪れるものかもしれない。
ボクには圧倒的に絶望が足りない。
絶望する勇気さえなくなってしまったのだ。
人類の、否、存在者の、
圧倒的絶望(ニヒリズム)を一身に受けて、
その圧倒的絶望の先に仏陀は仏陀になったんだとボクは思う。
仏陀(たち)がいなければボクは立ち上がることは出来なかっただろう。
そしてこれからも立ち上がることが出来ないかもしれない。
自分の足で立って歩くことはなんと厳しいことだろう。
その世界=存在者の哀しみと同調した時、ボクの琴線は弾かれる。
それは決してネガティブな涙ではない。
存在=神秘 の涙だ。
それはあの時と同じ、否定も肯定もない、
絶望を「絶望」という言外で理解する正直な涙だ。
それは、現存在(≒人間)* のアカシである。
有り難う。
人生はこの緩衝器を捨てていく作業だとボクは思っている。
決して逆ではない。
手放しで泣いていたあの頃のように、
現実に触れる勇気を、再び、
この手に
備考****************************
とは言え、深刻になる必要は全くない。
絶望することと深刻になることとは無関係だ。
絶望することとニヒリズムが無関係なことと似ている。
ニヒリズムとは、絶望しきれていないロマンチシズムのことだろう。
>〜否定的なものがトラウマ化する
これは言語が生まれるということかもしれない。
例えば、
「否定的(または肯定的)」という言語が生まれる。
こういう二元的な言語は分かりやすい。
我々の言語活動は、自身のトラウマが回帰してきたものだと言われる。
そのことは我々の言語活動を振り返ってみればたちどころに観察されるだろう。
だが、はたして言語=トラウマなのだろうか。謎である。
違うかもしれない、その可能性を意識しようぜ。
言語活動=トラウマの回帰であるのは確実なんだけれども。苦笑
ボクが「戦わない」と言うとき、
それは「戦っている」ということだ。
つまり言語の問題である。
つまり言語の問題ではない。笑
そしてボクはなお言語に期待している。
だから書くのだ。
>クリシュナムルティ
についてはこちらをぜひ。
◉クリシュナムルティの解散宣言。
>惑星帝国主義
>現存在(≒人間)
この日記でも、いつもそうだが、
「存在」と「存在者」についてボクは語っている。
簡単に言ってしまえば、
我々は「存在者」に没頭するあまり「存在」を忘れてしまった。
これをハイデッガーという哲学者が「存在忘却」と名付けている。
「存在」と「存在者」の差異については
このブログの根幹をなすものなので、こちらを。
◉『存在』 論1(存在と存在者)
この「存在」が立ち上がる場所としての「存在者」を
ハイデッガーは「現存在」と名付けている。
今のところ、我々の知り得る現存在は「人間」である。
「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、
存在の声によって呼びかけられ、
<存在者が存在する>という
驚異の中の驚異を経験するのである」
(マルティン・ハイデッガー)
「惑星帝国主義」もこのハイデッガーによる造語である。
ここからは余談になります。
まあ全ては余談なのですが。。笑
ボクは現在、エニアグラムについて筆を折っている。
エニアグラムの解説の続きを書けていない。
それこそ言語の問題が立ちはだかっているからだ。
書くことは無限にあるのだけれど。。
ボクのサボり癖および完全癖もあるがね。苦笑
今回のテーマである「緩衝器」を心理学的にある図形に当てはめ、
力学的に説明しようとしたものが現在のエニアグラムだと考えられる。
ボクは最近エニアグラムの会合のような場所に出席した。
しかしその違和感ったらなかった。苦笑
しかもその違和感はかなり根源的な疑問にボクには思えた。
その違和感を説明するには、ここでは書ききれないないし、
それこそ言語の問題で、説明が不可能な事態なのかもしれない。
あえて一言で表現するなら哲学の不在だろうか。
この手のリーダーにはやはり哲学性がいると実感した。
しかも哲学者はこの手のリーダーにはならないだろう。
不思議だが、然りとも思う。
クリシュナムルティが組織を解散したことにも深くつながると思える。
グルジェフが、このエニアグラムという図形を
踊っていた(舞踏に使用していた)というのが、
あるいはやはり正解なのかもしれないと今のボクはかんがえている。
これはボクがタイプ1であるから(感覚型+深刻ぶっている)とは
必ずしも言えないと思うのだがどうだろう。苦笑
個人的で専門的な話になってしまった。申し訳ない。