「たとえば一人の女性を前にした場合、その人を知っているうちは、
実はその人をよく知らないということになる」 ジョルジュ・バタイユ
ボクが 君を分析的に理解しようとするのは、
君が<神秘>であるからに他ならない。
「君」に誤解されたくないのは、
ボクが分析するのは 「君」の自我(ボクにとっての他我)*であって、
「君」自身=魂ではない。
「君」自身=魂を分析することなど出来ようか。
ボクにとっての「君」は、
完全に不可知で永遠に未知なものであって、
その主体性、すなわち「君」の絶対的自由を、
(つまり主体性と絶対的自由は同義なのだが)
むしろそれを保証せんがため、
その自我を剥ぎ取ろうと目論んでいるわけである。
つまりは、
「君」自身=魂を味会おうと挑んでいるわけなのである。
「君」に誤解されたくないのは、
ボクは「君」と同じようにろくでなしで、
「君」と同じように自己=魂を探している。
それは「君」という<未知>との遭遇により、
その「あいだ」にこそ創造されるのである。
間違いなく「君」は「神秘という主体性(または主体性という神秘)」を
永久に保持しているのだ。
間違いなく「君」は君であって他の誰でもありはしないのだ。
ボクが「君」に遭遇してゾクゾクとするのは、
そういう理由からで、もしそうでなければ、
君を分析的に理解しようとする動機さえもなくなってしまうのだ。
ボクはそのことを伝えるために書いている。
「存在神秘*」を伝えるのは、
他ならぬ「君」という神秘を、
その唯一の神秘性を伝えようと目論んでいるわけなのである。
ボクはこのことを再び、否、永遠に意志しなければならぬ。
それが<ボク>という自己の、魂の、創造=神秘だからである。
どうか、
どうか、安寧でいて下さい。
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もちろんここでの 「君」とは異性に限ったことではない。
より深く関わる可能性のある「他者」に対してのことである。
少し、リアルにしようと色気のある書き方を採用した。笑
>自我と自己について
ボクは心理学を学問として正式に学んだことがないので、
心理学が何をもって「自我」と呼んでいるのかはボクには分からない。
だけれどもボクは「自我」という名付けが指し示すところの本質を
直観しているはずである。
ボクは「自我」とは肉体だとかんがえている。(例えば「脳」も肉体である)
ボクが例えばエニアグラムを使って、自我の仕組みを把握しようとするのは、
それが肉体という物理の法則に則っているはずだからである。
もちろんこの手紙(日記)は、
ボクの、君の、自己は、それを超越した神秘の領域にあるのだということ、
そしてそれが自己(魂)の創造=発見の可能性であるということを伝えるためのものだ。
その「自己」についても同じで、
心理学が何を「自己」と呼んでるのかボクには分からない。
ボクが言う本質や魂と「自己」はどのような関係にあるのだろうか。
*存在神秘についてはこちら。
このブログにおいて一番大事なことなので。
◉『存在』論1