『君』を分析することについて〜Love Letter〜 | エニアグラムと哲学のTakkme

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◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

「たとえば一人の女性を前にした場合、その人を知っているうちは、
 実はその人をよく知らないということになる」
ジョルジュ・バタイユ
 

 

ボクが


君を分析的に理解しようとするのは、





君が<神秘>であるからに他ならない。

 




「君」に誤解されたくないのは、


ボクが分析するのは


「君」の自我(ボクにとっての他我)*であって、


「君」自身=魂ではない。


「君」自身=魂を分析することなど出来ようか。


 

 

ボクにとっての「君」は、
完全に不可知で永遠に未知なものであって、


その主体性、すなわち「君」の絶対的自由を、


(つまり主体性と絶対的自由は同義なのだが)


むしろそれを保証せんがため、


その自我を剥ぎ取ろうと目論んでいるわけである。

 

 

つまりは、
「君」自身=魂を味会おうと挑んでいるわけなのである。
 

 

 

「君」に誤解されたくないのは、


ボクは「君」と同じようにろくでなしで、


「君」と同じように自己=魂を探している。


それは「君」という<未知>との遭遇により、


その「あいだ」にこそ創造されるのである。
 
 
間違いなく「君」は「神秘という主体性(または主体性という神秘)」を
永久に保持しているのだ。


間違いなく「君」は君であって他の誰でもありはしないのだ。
 
 
ボクが「君」に遭遇してゾクゾクとするのは、


そういう理由からで、もしそうでなければ、


君を分析的に理解しようとする動機さえもなくなってしまうのだ。
 
 
ボクはそのことを伝えるために書いている。


「存在神秘*」を伝えるのは、
他ならぬ「君」という神秘を、
その唯一の神秘性を伝えようと目論んでいるわけなのである。




 

 

ボクはこのことを再び、否、永遠に意志しなければならぬ。


それが<ボク>という自己の、魂の、創造=神秘だからである。


 
 

 

 

 

どうか、
 
 
 
 
どうか、安寧でいて下さい。

 
 
 





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もちろんここでの


「君」とは異性に限ったことではない。

より深く関わる可能性のある「他者」に対してのことである。

少し、リアルにしようと色気のある書き方を採用した。笑

 

 

>自我と自己について

 



ボクは心理学を学問として正式に学んだことがないので、


心理学が何をもって「自我」と呼んでいるのかはボクには分からない。


だけれどもボクは「自我」という名付けが指し示すところの本質を
直観しているはずである。

 



ボクは「自我」とは肉体だとかんがえている。(例えば「脳」も肉体である)


ボクが例えばエニアグラムを使って、自我の仕組みを把握しようとするのは、

それが肉体という物理の法則に則っているはずだからである。

 



もちろんこの手紙(日記)は、


ボクの、君の、自己は、それを超越した神秘の領域にあるのだということ、


そしてそれが自己(魂)の創造=発見の可能性であるということを伝えるためのものだ。

 

 




その「自己」についても同じで、
心理学が何を「自己」と呼んでるのかボクには分からない。
ボクが言う本質や魂と「自己」はどのような関係にあるのだろうか。
 
 
 
存在神秘についてはこちら。
 このブログにおいて一番大事なことなので。
 ◉『存在』論1