肯定への意志、あるいは意志は可能か(『意志』論1) | エニアグラムと哲学のTakkme

エニアグラムと哲学のTakkme

◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

                    




「過去」という試練を肯定出来るのは他のだれでもない<ボク>でしかない。






これは<ボク(自己)>を創る旅である。
言い換えれば、「人生」という治療(または「治療」という人生)である。
そして治療とは創造である

このことは非常に重要なことだ。
「肯定」というコトバには語弊があるかもしれない。
ある哲学者はこう言う。


「意志されざる過去をふたたび意志すること」


さすがである。
過不足のない表現だ。









僕らは生まれてきた。
生まれてはきたが「生きて」はいない。


生まれたのは言わば「偶然」である。
その環境もまた「偶然」である。
僕らの過去は「偶然」に支配(レイプ)されてきた。
僕らはこの「偶然(という過去)」に踏みにじられ、傷つけられてきた。
(非常にネガティブな表現になっているのをご了承願いたい。
 このネガがポジに、偶然が必然に反転する地点、
 否、ネガ・ポジの溶ける地点の話であるから)



「過去」という石は転がらない。




転がそうとする「力への意志」*には限界があるのだ。



もう一度、


いや何度も、


永遠回、 (自分の)過去を生きる。

(「過去」とはそもそも<それ>以外に存在しないではないか!)



その全く同じ(自分の)過去を、である。







永遠回帰







その覚悟が「意志(=今)」である。
(芸術というのはその「意志」の一つの現れであるとボクは思う**)



それは重く過酷な旅だろうか。
それとも光輝く旅だろうか。








「過去」という試練を肯定出来るのは他のだれでもない<ボク>でしかない。







「肯定」というコトバには語弊があるかもしれない。

ボクの「過去」はボク<だけ>の過去である。
ボクの「人生」はボク<だけ>の人生であり、
他の何人もそれを味わったことはない。
何よりその人生はボクしか知りようがないのだ。
これは、奇跡であり、神秘である。
それはボクの一本道だった。
それが<歴史>である。歴史にifはない。


だからそこには否定も肯定もない。
どんなオンボロでがらくたな過去だと感じようとも、
(そう「感じる」のは自我だ。そうやって自我は固まり、分裂する。)
それは唯一の<ボク>の道だった。唯一の、である。

もう一度、いや何度も、永遠回、その過去を生きるのだ。
その暗黒の黒光りする地点を観続ける。
それが出来るのは<ボク><だけ>、なのだ。


慈しみ(肯定)というのはここから生まれるとボクは思っている。
自分の過去を慈しむことが出来ずに、
どうして他者(世界)を慈しむことが可能だろうか。


肉体(精神・感情・本能)の健康とのバランスをはかりながら、
自分のペースで、<生きて=意志して>欲しい。
ボクはそう願い、祈る。









「生きる」とは「意志すること」だとボクは思う。


そして人生とは、

「<意志>することは可能か?」というテーマ、それ自体である。







「生きる」ためにはまず死ななければならない。
そして死ぬためには、まず何よりも目を覚まさなければならない。
眠ったままでは死ねないからだ。
目を覚ましたならば、<私>がすでに死んでいたことに気づくだろう。



それが2度目の誕生日だ。
<ボク>の本当の誕生日だ。
今度は偶然に支配された誕生日ではない。










<ボク>らは








<意志する>表現者として、








この世界劇場へ









再びデビューする








再び、












Happy Birthday !
















備考*******************
>*「力への意志」

「意志されざる過去をふたたび意志すること」
「永遠回帰」と同様、ニーチェによる語である。
この日記はニーチェとの関係によって書かれました。
(それと黒澤明の『生きる』)

ボク自身は「力」とは「肉体(存在者=世界)」だと考えている。
「力学」である。
(この「力学」の理解の一助としてボクはエニアグラムを使います)
この力学(パワーゲーム)により人は傷つき傷つけ返そうとする。

「力<への>意志」と言うからには(「力という意志」ではなく)、
ボクの名付けでは「力」の<外>に位置するのが「意志」である。
だが、ニーチェ自身がどう使っていたのかボクには判然としない。
ここでは恐らく一般的だと思われるパワーゲーム(肉体・物理法則)の内側として
「力」という語を用いました。

もちろん特にこの日記の地点は<内><外>ぎりぎりのコトバですが。


さて、
「肯定」とは何だろうか。
この肯定を「否定」の反語として語らないためには、
血で書くことが要求される。
血で書くとは<内>で書くということだ。
<外>の拒否である。

だから、
「意志されざる過去をふたたび意志すること」を
ニーチェが(少なくともその時は)恐らくパワーゲームの内側としての
「究極の力への意志」と捉えたことをボクは支持する。
血で書かれたものは支持するより他ない。

それは恐らく<外>を知らないということではない。
知ったからこそ「試練」としてのしかかるのだ。
「血で書く」とはそういうことだと思う。

「過去」という試練を肯定するのに<外>を捏造することは、
煽動者、宗教者(僧侶)のすることだ。

もちろんそれが「悪い」ことではないし、
肉体(精神)の健康の助けとなるのかもしれぬ。


でもボクはニーチェがとった方法が
実は唯一の方法だったのかもしれない、とときにかんがえることがある。

(少しこの補遺部分は難しくなったかもしれません。
 ここはボクのメモのようなものですので。)



>**芸術というのはその「意志」の一つの現れであるとボクは思う

ボクは最近ある人の絵を見て感じたことですが、
「輪廻というのは自分の<内>にあるのではないか」ということです。
これはニーチェの永遠回帰ではないか、とふと思ったんです。
芸術という一種の不真理は、少なからず
「過去を意志する(再び生きる、肯定する)」過程で生み出されるものではなかろうか。
それは<治療という創造>と無関係であるはずがないとボクには思える。