mixiより/2007年04月13日
(追加文あり)
このことについて
語り得ることは少ない。
ボクの性格タイプ(タイプ1)はカウンセラーには向いていないが、
先日、思わぬカウンセリングに成功した。
ボクの友人に毎日死にかけているヤツがいる。
この女、ろくでなしだが、友人である。
4年前にも、自殺未遂をして、
10日間意識不明の重体になった。
彼女は毎日、朝起きたときに
生きるか死ぬかをかんがえる、という。
(今度、未遂は許されない、と彼女は思っている)
これは、キツい。
死ぬ理由はたくさんある。
生きる理由は少ない。
生きている人は生きる理由があって生きているわけではなく、
ただ、漠然と生きている、とボクは思う。
「生き甲斐」などという宗教を信じている人は「健康」な人だと思う。
ボクには一つだけ言えることがある。
死に近い人は、死線にいる人は、
自分の生きている理由を自覚しようとする。
それは、苦しいことだが、
ボクには、なんていうのか、
希有で貴重なことに思える。
彼女の場合、それは死ぬ理由と同じものだった。
つまり生きる理由が死ぬ理由と同じものだったのだ。
(追加/それは母親(タイプ2)に関することであった。
詳細は省くが、タイプ7は母親と否定的に繋がっている
場合が多い。そうでない幸運な場合、
より健康的であるのかもしれない)
彼女は言う。
わたしがたくみ君の立場だったら、
もはや、死ぬことを薦める、と。
ボクはうなずくことしかできない。
ボクは家に帰ってかんがえてみた。
ボクも客観的には、もうキツいんじゃないのか、
もう生きるのは充分じゃないのか、と感じる。
ボクの性格から死ぬことを薦めるのがキツいという、
ショボい理由を除いて、
なぜ、ボクは、彼女に死ぬことを薦めないのか、
かんがえてみた。
ちなみにボクは死 = 悪だと思っていないし、
自殺 = 悪だとも思っていない。
キリスト教は性に合わない。
彼女の方もそれはそうである。
ボクはある結論に達した。
これは完全にボクの問題だが、
ボクは、腑に落ちないのだ。
彼女が死ぬことが。
理由はない。
いや、語ることができない、というべきか。
語り得ないのではない。
ボクは彼女を理解している。
恐らく、ボク一人かもしれない。
彼女の不幸は理解者が居ない、ということだが、
その不幸が、彼女のある認識を深めた、
ということもボクは理解している。
ただ、それでも、共感は0.1%
それでも、それは奇跡的なことだ。
誤解しないで欲しいのだが、
ボクは自分勝手である。
後日の彼女のメール(承諾済)
**********
H君の言うことを(私が)聞かなかったとき、
匠君は二度と私に連絡してこないと思っていた。
私は昨日よく理解した。
彼と、袂を分かってまで私に付いたのに
今死なれたら口惜しいという(匠くんの)言葉は私の魂を刺した。
本当に本当に私の心に届いた。
誰からもそんなことは聞いたことなかった。
それは、私の言葉でもある。
私は本当に驚いた。
あれは、参った。
私には言えない。
私はとても疲れているが、今でも存在をやめたいと思っているが、
あの言葉は私の心を貫いた。
私は、自分にそこまで正直になれない。
まったく、私の心を貫いたよ。
誰かが私に影響を与えるなんて考えたこともなかった。
誰かが私を理解しようとしているなんて考えてみたこともなかった。
私のことを好きであるとか、嫌いであるとかはサンザン聞いたけど、
誰かが私、というものを存在を理解しようとしてくれるなんて
考えてみたこともなかった。
私はこのことを考えなくてはならない、と思う。
有り難う。
どんな言葉よりも私の心を貫いた。
**********
彼女は、ボクの伝えたエニアグラムを苦もなく理解していた。
「タイプ4は私に負けず劣らずろくでなしなんだけど、
いい男なんだよね~」と言っていた。
そして彼女は先日、東京都知事選の不在者投票を済ませ、
そのイケメン(タイプ4)に会いにアルゼンチンに旅立った(アルゼンチン人!)。
2曲歌うんだ、という。
取りあえずの「生き甲斐」らしい。笑
追加
(今から6年前の日記である。
これがタイプ7の話であるというのは、
エニアグラムの初心者には誤解を与えかねないし、
信じられないかもしれない。
〈飯島愛や上原美優を想像していただけるといいかもしれない。〉
タイプ7はその闇に焦点を当てづらいし、
当てたとしてもそれを表に出さない。
ボク個人はそのタイプ7のスタイルが好きだが、
本当の問題を抱えたとき、その発見が遅れる理由とも思える。
彼女はあの時、わんわん泣きながらボクに母親の話をした。
彼女はこの年の7月に自らの命を絶った。
ボクは後悔している。
この彼女からのメールは今読んでも重要極まりないものである。
なぜ、ボクは彼女に対して真剣になりきれなかったのか。
自分のことで一杯一杯だったからだ。アホウだ。
もっと言えば大事と小事を分けることが出来なかったのだ。
バカだ。
こうやってこのことをコトバにすることで、
この事象を自我化しようとは思わない。
このこと以来、ボクは、タイプ7に象徴されるニヒリズムと、
「人は他人に興味がない」という哀しい事実についてかんがえ続けている。
彼女はタイプ7という肉体を目一杯使って、
人間(=私)にまつわる本質的問題を突きつけてくれた。
お礼を言うのはボクの方だ。有り難う。)
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ここからはmixiでの会話です。
>Dionaeko
日記の趣旨からはズレますが、
私は死にたがる人との付き合いはなるべく避けています。
死にたがる人は生きたがる人でもあることが、往々にしてあるので
生きることを薦めても、死ぬことを薦めても、否定されたりして、
次第に、メンドクサクなるのです。
生きる奴は生きるし、死ぬ奴は死ぬでしょ、という結論で思考停止。
私は、人の死生観に共感を覚え、理解出来たことはありません。
人の死はやはり、自分の死とは別にあるように思います。
>Takkme
>私は死にたがる人との付き合いはなるべく避けています
それは賢明でしょう。
ただ、避けられない場合がある。
それは、親であったり、子であったり、恋人であったり。
ただ、これらの場合カウンセリングは成功しないどころか、
深みにはまるでしょう。
ボクの場合、友人であったことが、良かったです。
「自分には客観的に、人には主観的に」
誰の言葉でしたか。キルケゴール?
おっしゃる通り、自分の死(生)と他人の死(生)には、
決定的な溝があります。究極的にはみな孤独です。
ですが、だからこそコトバが発明された、とボクは感じます。
それは、今までボクがコトバについて書いてきたことでもあります。
80%の共感はウソくさいが、0.1% の共感は極、希にある。
これがカウンセリングの醍醐味でもあるんだなあ、となんとなく
感じたのでした。
そう言えばぐる猫さん、
そこの部分(死にたがる人?)に
ぐる猫さんの傷(こだわり)を感じますが、どうなんでしょうか。笑
>Dionaeko
えへへ。こだわりが非常にあるんでしょうね。
実際死んでしまった人もいますし、メンドクサクなって
放り出してしまった人もいます。
カウンセリングは私にもどうやら向いていないようです。
自分の知人で、死にたがる人に何処までも付き合える人がいましたが、
共感よりも、別のものを求めていたように思います。
私はその人を心の中で「侍」と呼んでいたのですが
まぁ、別に好い意味でも悪い意味でもありません。
私にも朝起きて、
生きるべきか死ぬべきか考えていたこともありましたし、
死んでも別に良かったんじゃないか、と思うときもありました。
今でも、生きていて良かったような悪かったような、
未だに結論は出てません。
そういえば、キルケゴールは、死を希求するのに、
死ぬことも出来ないのが、絶望である、なんて言ってましたっけ。
>Takkme
>死にたがる人に何処までも付き合える人
その字義通りであれば、それはおかしなことだな、と思えます。
ボクは何処までも付き合う気はさらさらありません。
むしろ「何処までも付き合わなくても」いい人と
対等な付き合いをしたいわけで。笑
カウンセリングが上手くいく条件として、
相手に期待をさせない、ということがあると思います。
特に「何処までも付き合う気はない」ということが、
相手に伝わっていないといけない。
だからこそ、親や兄弟や恋人では特に難しいのだと思います。
(友人というのはぎりぎりのところでしょうか)
そもそも親や兄弟や恋人との共依存が「死にたがる人」の
原因になっている場合が多いですもんね。
ちなみにボクにはカウンセリングをしているつもりは全然なく。
友人ですから。笑
「相手とホントウに話ができた」(0.1%の共感)結果、
西欧でいう「カウンセリング」という状態が成立していて、
それは客観的な捉え方ではあるな、と思った訳です。
>Dionaeko
>死にたがる人に何処までも付き合える人
この例は、Takkmeさんが指摘したように、
カウンセリングが上手くいっている例ではありません。
むしろ傍目から見れば、共依存の温床になるような人です。
私はこの人の気持ちが理解出来ず、
何故深い友人でも、恋人でも、家族でもない立場の
死にたがっている人間の助けになろうとするのか、と思っていたものです。
(死にたがる人間ばかり探して歩いているようにも見えました)
恐らく、私は腹立たしくも思っていたと思います。
何故かはわかりません。
ある種の献身行為にいつでも腹が立つのです。
Takkmeさんの解釈が聞きたくて、例を挙げてしまいました。
>カウンセリングが上手くいく条件として、
相手に期待をさせない、ということがあると思います。
これは、リソの本でも症例として取り扱われていた、
境界例の治療に使う方法ですね。
「何処までも付き合う気はない」ということを伝えるために、
カウンセリングの現場で治療契約を結びます。
契約・・・、つまり破棄されることもある=何処までも付き合う気はない、
ということなのだと思います。
>Takkme
>Takkmeさんの解釈が聞きたくて、例を挙げてしまいました。
もちろん承知しておりますよ。誤読しませんから。笑
ぐる猫さんのその人に対する違和感に共感する意味で書きました。
その違和感、ぐる猫さんの傷(こだわり)をさっ引いても(笑)
真っ当だと思います。
ただ、なぜ「侍」かは分かりませんが。笑
>恐らく、私は腹立たしくも思っていたと思います。
何故かはわかりません。
ある種の献身行為にいつでも腹が立つのです。
それはタイプ2に対して、、、やめておきましょう。笑
一般的にはその献身タイプは「自分の欲望」と「他人の欲望」が
混同されているわけです。
つまり「自分の欲望」に対する自覚が薄い
(相手のためにしている、と思っている)
ところが、見ていて腹立つ。笑
もちろん、それも献身者の傷なわけです。
「患者(?)の傷 対 献身者の傷」の構図になる。
まあ、その構図に対して必要以上の嫌悪感を感じるとしたら、
それはこちら側の傷ですが。笑
ただ、その傷、自覚しておきたい。
>Dionaeko
私にとって、侍は大義のために行動出来る人間だからです。笑
それが理不尽であれ、主君がご乱心であれ、
従うことが出来るからです。
別に軍人でもいいのですが、侍の方が「個」のイメージなので。
三島由紀夫が『葉隠』を引用して
「大義のために死ねるのは幸いである」と語っていた自決前のスピーチや、
『戦艦大和の最期』の軍人の台詞に
「死ぬ意味を問うなんて、寧ろ有害な屁理屈である」とあったことを
オーバーラップさせてのことです。
私は理屈を大事にしたい。
だから、侍はいつだって理解を超えるのです。
>Takkme
献身者の話に限定すると、その意味でも「侍」じゃない。
むしろ「小義(?)」(自分の欲望)と
「大儀」(他人の欲望)を混同している。笑
>侍はいつだって理解を超えるのです。
ただ、疑念者(タイプ6)としては、「侍」の魅力もわかる?笑
>Dionaeko
昨日、自殺した友人たちが夢に出てきました。
そのうちの1人が目の前でもう一度自殺しました。
(現実では、現場は見ていません)
私は夢の中で、その子の両親に謝っていました。
私は今でも自分が殺したように錯覚するときがあります。
他の自殺した子たちは、夢の中で私を庇ってくれました。
私は精神が脆弱なせいか、死線にいる人と向き合うのがツラい。
私は負けない、と何故か思いました。
意味不明でごめんなさい。
>Takkme
>私は精神が脆弱なせいか、死線にいる人と向き合うのがツラい
ツラくない、という人はおかしい。そういえば、
向かい続けていた河合隼雄さんがなくなりましたね。(合掌)
問題は、向き合わねばならなくなったときです。
ボクも好んでは向き合わない。笑
>私は負けない
これはぐる猫さんの、
「不条理に対する怒り」に似ていますね。