「人生の訓練」~弟子としての訓練~ V・レイモンド・エドマン 著
「弟子としての訓練」 弟子とは、師なるかたに教えられ、訓育されてきた者のことである。無知のまま、迷信や罪を持ったままで師なるかたのもとに来て、真理を学び、救い主からゆるしを受けた者のことである。たとい主の御名を口にし、謙そんなナザレびとの従者ということで通っていても、師なるかたの訓練を受けなければ弟子ではない。規律や忠誠心が重んじられる代わりに、自由や放任が強調される現代においては、これまでにもまして、主の弟子としてのきびしい訓練を受けなければならない。 弟子になるには、回心が必要である。自分は神に反抗したために神から離れた状態にあることを認め、悔い改めの心で救い主なる主イエス・キリストのみもとに来ることである。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)神がご自身の御名の栄光をあらわすために訓練なさるのは、ご自分の子らだけである。神はご自分の子らを教え、鍛錬し、かたくなな心を柔らかくし、円満な人物とし、力を与えて堅固な者に仕上げたいと望んでおられる。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるだろう」(マタイ11:29)と語られたかたのすばらしさを、人々にはっきりと示すためである。父の訓練、すなわちきびしいしつけを受けない者は、子ではない。しかし、それと同時に、子に対する励ましのみことばも受ける必要がある「当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11) 弟子は、犠牲を払うことについて訓練されなければならない。「わたしよりも父また母を愛する者は、、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と語られた主のことばは、私たちの魂の奥底までも探るものである。主はこのみことばを取り上げて、神聖な原則を明らかにされた「だれでも、父、母、妻、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:26)すべてを捨て、自分の命までも惜しまないということは、弟子としての訓練の中でも最も深いものである。世には自分よりもいとしく思われる人を持つ人もいる。しかし、救い主よりもいとしいようであってはならない。私たちは、救い主のために、またそのみわざのために、愛する者や世的な快楽を捨て、それらに対して死んだただイエスのみ主は、私たちが弟子としてのこの訓練を軽く見たり、いいかげんに取り扱ったりすることを戒めておられる。 十字架を負うということも、弟子にとって欠くことのできない訓練である。主は言われた「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23、マタイ16:24)「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:27)この十字架とは、救い主が私たちの罪のために負われた十字架ではない。なぜなら、私たちがどのような代価すなわち犠牲を払おうとも、主がすでに成就された贖罪のみわざに加算することはできないからである。私たちは、主が十字架につかれたゆえに、日々世に対して十字架に死に、また、世の中のよきにも悪しきにも死んでいるのである。主が十字架を負われたゆえに、私たちも自分の十字架を負う。すなわち、師の弟子となるために、柔和で心のへりくだったかたに学ぶのである。私たちがへりくだって、何をすべきかも知らぬまま、涙にあふれて御前にひざまずくとき師は私たちの魂に対する真の愛情と優しさにあふれてこの尊い訓練を授けて下さる。世は私たちをひきつけようとしてまばゆく光るが主イエスに比べればおぼろげな光にすぎない。愛する者たちは私たちの心を魅了してやまないが、しかし、このかたこそ真に愛すべきかたである。主の愛はすべての障害を打ち砕いた。そして、私たちはそっとささやく「主イエスよ、どんなに犠牲を払うことがあっても、どのような十字架があっても、私をあなたの弟子として下さい」と。