御父・御子・聖霊は一つの等しい実体、等しい永遠である。

しかし、被造物の見える姿において分離して表示される。

 

 

 「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」(ピリピ2:6~7)

 
 
 御子は自ら取ったしもべのかたちにおいて御父に劣るが、しもべのかたちを取る前の神のかたちにおいて御父と等しい。御子は神のかたちにおいては、
 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:3)
 だが、しもべのかたちにおいては女から生まれたのである。すなわち、御子は律法の下にある人を救うために、律法の下に生まれたのである。(ガラテヤ4:4~5)
 
 それゆえ、御子は神のかたちにおいて人間を造り、しもべのかたちにおいて人間として造られた。もし、御父だけが御子なしに人を造ったとすれば「われわれはわれわれの似像と類似に従って人間を造ろう」(創世記1:26)と記されることはなかったであろう。
 
 
  「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
 
御父が示されるとき、御父の内にいます御子が示され、また御子が示されるとき、御子の内にいます御父も示されるのである。
 
聖霊は両者の、すなわち御父と御子の霊であるから、両者から分離してはならない。
 
 
 
 「わたしが父にお願いしよう。そうすれば、父は別の弁護者をあなた方に与えて、永遠にあなた方と共におらせてくださるであろう。」(ヨハネ14:16)
 
 それゆえ、聖霊は御父と御子を離れて来ることはなく、御父と御子も聖霊を離れて来ることはないからである。
 しかし、三位一体についての正しい認識を与えるべく、ペルソナのそれぞれの名が付され、異なることが異なるペルソナによって言表される。この場合、一つのペルソナと他のペルソナとが分離されていると知解してはならない。なぜなら、三位一体は統一性を持ち、御父と御子と聖霊の実体と神性は一つだからである。