私は快楽を約束してくれることを行いたい気持ちを感じる。しかし私の良心がそれを許さないという理由でそれを中止します。あるいは、私は過大な快楽を期待してある行動に出たのですが、それに対して良心の声が異議を申し立てた。そしてその行為ののちには、良心は痛烈な非難をもって私を罰し、その行為に出たことに対して後悔を感じさせます。私は、私が自我の中で区別し始めているところの特別な法廷は良心なのだとあっさり言ってのけることもできそうですが、しかしこの法廷を独立させておいて、良心はこの法廷の有する機能の一つであり、良心の裁判活動にとって不可欠の自己監視はこの法廷の別の一機能であると仮定するほうがより慎重であります。そして、物にそれ自体の固有の名前を与えることは、それを一個の独立した存在として承認するのに必要なことですから、私は自我の中にあるこの法廷をこれから先は「超自我」と呼びたいと思います。
自己自身の意図をどこまでも追求し、そのエネルギーを自我とは独立に所有しているところのこのような超自我という観念に親しむようになると、一つの病像を否応なしに思い浮かべます。それは、鬱病です。もっと正確に言えば、鬱病の発作です。この発作については、精神科医ならぬみなさんもすでにいろいろお聞き及びのことと思います。この病気の誘因と機制とについてわれわれの知るところはあまりにも少ないのですが、この病気でいちばん目立つ特徴は、超自我が - そっと「良心が」と言い直して下さっても結構です - 自我を取り扱うその取扱い方なのです。鬱病患者は健康時には他人と同じように自己に対して示すきびしさもほどほどなのに、発作中には超自我が極度に厳格になって、あわれな自我を罵り、卑しめ、虐待し、自我にきわめて重い刑罰を予想させ、今はもう遠い昔のこととなった、そしてその当時は平気で見過されたいろいろの行為を引っ張り出してきて自我を非難するのです。あたかも超自我が休止期の間中弾劾材料を集めていて、今やそれを携えて立ち現われ、それを証拠に有罪の判決を下すべく、発作時に当たって自分が強くなる機をただひたすらに待っていたとしか思われないような工合なのです。超自我は無条件降伏をした自我に、きわめて厳格な道徳的尺度を当てます。超自我は要するに道徳の権化なのです。そしてわれわれの道徳的罪悪感が自我と超自我との間の緊張の表現であるということは、一見して明瞭であります。神から授かり、人間の心の中に深く植えつけられていると言われている道徳性を、周期的現象として眺めることになるとは実に奇妙な経験です。と言いますのは、数ヵ月経つと道徳の幽霊は跡かたもなく消え失せ、超自我の批判は沈黙し、自我は復権して次の発作が起こるまではふたたび一切の人権を享受するからです。それどころか、この鬱病という疾病には中間期にはそれとは反対のことが起こるという形式も少なくはないのです。つまり自我はしあわせな陶酔状態にあり、あたかも超自我がすべての力を失ったかのように、あるいは自我に合流してしまったかのように勝ち誇るのです。そしてこの自由になった躁病的自我は、実際何の妨害も受けずにありとあらゆる自己の欲望を満足させます。

