カウンセラーや教師など、誰かに伝える仕事をしていると、万人を平等に愛さなければならないと思い込んでしまうことがあります。
セッションでお話ししている中でも、「人としてこうあらねばならない」という理念と、職業人として求められているであろう倫理感が、いつの間にか混同されているのを見つけることもあります。
私はこれを役割意識と呼んでいます。
連続講座を受講いただいている方からのお便りです。
ご質問ありがとうございます。
動画ではDAY15の中で詳しく回答しますね。
今日はひと足先に、ブログで参考になればと思いテーマに取り上げてみます。
昨日のブログとも繋がりますが、修行が足りるということとご主人や母親と来世もまた会いたいということは、イコールではないと私は考えています。
ちょっと話が変わるかもしれませんが、テレビなどで「世界一の幸せ者です」とか、「宇宙で一番好き」と言っている人を見たとき、私は(性格的に冷静なもので)
ほんとに~?
それ調べたんかーい。
と思うことが、ままあります(爆笑)
で、笑い飛ばした後で、
「まるで世界一の幸せものではないかと思う」
「宇宙で一番好きだと思う」
という風に少し文章を足して想像してみるのです。
世界一の幸せ者が、だれ視点で、だれ調査なのかが明確でない以上は、実はハッキリさせることは不可能ですよね。
その曖昧な表現と自身の感じ方は、まったくベースが異なるので、比較にならないのです。
なので、結局のところ自称(当社比…笑)です。
その方がそう感じたのなら、その方にとって事実でしょう。
同様に、そのコメントに共感しきれない自分という存在や、その感じ方も、自分にとって事実です。
正しくない(あえてこの表現にしますが)比較をして、自分の修行が足りていないかどうかを考える必要はないかと思います。
その上で、私は、正直に自分の感覚を捉えておられるところが、素晴らしいと感じます。
人間的成長を目指していると、聖人君子ではない部分を見つけると、「まだまだ修行が足りん」と思ってしまうかもしれません。
その一方で、違和感や同じように思えない自分を見つけたのを見逃さず、受け止めたことは、人として成長なのではないかと私は思うのです。
誰かを100%受け入れられないとき、人として何かが欠けているように感じることがあるかもしれません。
だけど、もしも感じたことを無かったことにして押し込めたとしたら、それは不発弾として心に残り、ある時にふとした刺激で爆発したりします。(レイキレベル3テキスト参照)
心がざわつく自分を見つけた。そのことは、事実を受け止めています。
真面目に向上心を持って生きてきた人にとって、その事実を受け止めることは葛藤を感じるかもしれませんが、職業人である前に、まずは、ひとりの人間という存在です。
何を感じたとしても、心の中は自分のものであり、自由であることを思い出してみてくださいね。
次のステップへ進みたくなったときに、そのざわつきをさらに観察していかれると、気づかなかった自分の一面を発見されるかもしれません。
今日のこのブログを読んで、大笑いして、深掘りしなくてもいいや…と思われたなら、それもOKです。
知りたいこと、解決したいことがあれば、お聞かせくださいね。ブログでお答えしていきます。
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