「雑ネタ・あれこれ」・・・福岡県・飯塚市 麻生グループの苦悩 | 「おやじの雑記帳」令和編

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今回の映像・・105日の撮影です。
 
前回まで 筑豊炭田の 財閥系炭鉱の事を中心に 書いてみました。その前の地元
資本の 炭鉱 5大炭鉱主を追いかけましたが、麻生鉱業を 追加的に アップして
みました。麻生鉱業は 脱炭鉱を意識邸に 強力に遂行している感じが強く その様な
方向性には 其れなりの 思いがあった様にも 感じられます。特に 炭鉱終焉ちかくの
韓国人労働者の 強制労働などにも絡んで 反省の念も これあり、沈黙の中での
忘却を求めた姿の様にも 感じます。

 
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筑豊富士の袂、二連の斜鉱の巻き上げ機ダいざ跡の 三菱飯塚炭鉱は 駈っては
中島炭鉱と言い、中島徳松氏により 開設された炭鉱で 後に 三菱に譲渡された
炭鉱です。
 
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二連巻き上げ機の跡の 対面位置に レンガの塀や門構えの 御屋敷が有りますが
此処が元々 中島氏の邸宅でした。現在では塀の内側は 更地に成っていますが
村の古老の話によると 屋敷の日本庭園や 豪邸は 10年程 前まで存在していた
模様でした。どの様な理由で 更地にされたのか 知る由も有りません。
この別邸は 麻生鉱業に譲渡され、麻生鉱業の 接待用に使用され、麻生倶楽部と
呼ばれていました。
 
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中島徳松氏は 炭鉱運営の中、飯塚病院を設立 炭鉱関係者の医療にも尽力しました。
炭鉱の廃止後も 病院は継続し 地域の胃漏機関として 充実を続け、今では
麻生グループの 中核事業に迄 成長しています。
 
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麻生鉱業は 石炭の生産のかたはら、田川市香原岳を買収し その石灰岩を原料として
セメントの製造をはじめます。麻生セメントの誕生です。後の 石炭とセメントが
合併して 麻生工業となりますが、両方共に 時代のニーズに合った産業で 発展し
発展に寄与しました。麻生副総理は 此処の社長をされて居ましたが、社長職を弟に
に譲り、政治家をこころざして 現在に至っています。
その後、時代の流れの 石炭の滅亡で 石炭部門を廃止し、セメントのみが 麻生工業
に残り 存続しています。
 
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飯塚市の中心部に 「大浦荘」とゆう 別荘があります。ここは麻生セメント会社の
所有物で 平時は非公開となっています。飯塚市のひな祭りには 一般公開があります。
たしか 秋の 紅葉時にも 公開が在ったと思います。
 
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この筑豊や北九州 大牟田などには 多数の炭鉱が犇めいていますが、暗い影として
朝鮮人労働者の 強制連行の問題が 残っています。
軍部の拡大に伴い 労働者不足が始まり、その人材不足の矛先を 朝鮮にむけました。
当初は 人材募集で始めましたが 中々 集まらなくなり 軍部の拡充等とも相まって
徴用と言う名の 強制連行へと 進んでゆきました。
労働条件も 日本人とは格差が在り 賃金の切り下げや 不払いなど 横行するに至り
お国の為にの 合言葉のもと 朝鮮人が酷使されてゆきます。日本人労働者が不足し
この時代には 3040%が朝鮮人の労働者数に 追い込まれて行きました。
 
各々 鉱山には 500010.000人の 朝鮮人が 強制就労が行われ、過労や事故で 帰らぬ
人も 多発しました。方々の 炭鉱には朝鮮人慰霊碑等が見られますが、氏名や年齢 出身地
など 殆ど不明です。その人数すら 掴めてはいません。
国際法上では 解決済の問題ですが、反省すべき事象でしょう。
この様な問題も根底にあり、炭鉱の遺構 遺跡は出来るだけ 人目に触れない様にしたい
との心情があります。