サピエンス全史の続編、ホモ・デウス、昨年秋に読了した後、なかなかブログにアップできずにいました。ほぼ、要約のようになっていますが、覚書として綴ります。

 

 

将来を見通し、能動的に未来を形作る
人類が対峙してきた飢饉、疫病、戦争という三つの問題は解決の目途が付きつつある。生態系の安定性の回復が人類にとっての次の重要プロジェクトと認識されているが、さらに不死、幸福、神性の獲得の三テーマが人類の次のターゲットになるだろう(ここでいう「神性」とは、ホモサピエンスをホモデウスへとアップグレードする試み)。これを追求した結果は、我々がイメージする世界とは全く異なる世界を導くかもしれない(実際、人間至上主義が目指す世界に進み続ける結果、データ至上主義という全く異なる世界が実現される可能性があるというのがハラリの見解)。成り行きの未来をなすがままに受け入れるのではなく、歴史から学び、人類の新たな課題が何であるかを理解し、主体的に未来を考えていくことができるよう本書を執筆した。
 
近代を支えてきた宗教としての人間至上主義
  「人間と動物との違いは何か」。この問いは本書におけるもっとも重要な問いかけの一つである。農業革命を通じて人類は「家畜」という新たな生命体を誕生させ、神の名のもとに人間と動植物を区別した。科学革命は、さらに神の名を借りず、人間至上主義という新たな宗教を作り上げ、人間と動物を区別した。
 個体としての人間と動物を切り分ける境界線は実はそれほど明確ではなく、魂の有無や意識ある心の有無で人間と動物を線引きすることは難しい。そもそも自分以外の人に心があると証明すること自体が難しく(他我問題)、また、近年の研究に基づけば動物にも意識/感覚があることが分かっている。サピエンスと動物を切り分ける境界線はこうした個体の差ではなく、顔が見える範囲の集団に留まらずにより大勢で柔軟に協力する能力を身に着けたこと。
 この能力によって共同主観的なモノが登場し、農業革命の時代は、書字と貨幣を発明し、人類は、より複雑な虚構を作り出せるようになった。さらに科学革命を経た今、この虚構と現実は複雑に絡み合い、何が虚構で何が現実なのか、これを区別することが難しくなってきているが、虚構と現実を見極める力がこれまで以上に重要となっている(我々が当たり前と考えている人間至上主義が必ずしも当たり前ではなくなる)。
 科学は、実用的な制度を創出するために「宗教」の力を必要とする。ここでいう「宗教」とは、「社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段」として理解される。この宗教に人間至上主義を当てはめると、科学と宗教(人間至上主義)は、力と秩序を双方に追い求める強固な協力関係を作っている。この協力関係は、必ずしも真理の追究を目指さないため、真理の探究は霊的で個別的な活動となる(つまり、ハラリ自身の執筆が霊的な活動であるということ)。
 科学革命を経て、人類は、あらゆるものを克服する力を持っているはず、と考えるようになり、資本主義と科学技術がセットとなり、(生態系のメルトダウンといった問題を引き起こし始めているものの)、ゼロサムの世界から成長を前提とした共存の世界を実現してきた。この過程で登場した新たな宗教が人間至上主義である。有権者の自由意志や消費者の自由意志といった自分自身を「意味の究極の源泉」とし、人間の自由意志こそが最高の権威である、とする考え方である。社会主義的、または進化主義的な人間至上主義が挑戦を受けた時代もあったが、現在は、自由主義的な人間至上主義が世の趨勢となっている。そして、今、この「自由意志」という概念が新たな挑戦を受けている。
 
人間至上主義の根本が揺らぎ、データ至上主義が登場する
 自由意志は、三つの方面から挑戦を受けている。まず、進化論。進化論によれば、個々人は自由に行動しているように見えて、自然淘汰の結果、生き残った遺伝子コードに沿って行動しているだけ、となる。また、個々人が持つ欲望も現代の技術を活用すれば制御が可能である(例.経頭蓋直流刺激装置)。さらには、「私」は、経験する私と物語る私がおり、私の意識を形成する物語る私は、ピーク・エンドの法則に従い、必ずしも経験する私の経験をそのまま物語(意識)に反映しない。ここには過去を肯定しようとする慣性も働き、この意味も含めて「自己」も限りなく想像上の物語に過ぎないということになる。
 また、実用性という観点からも、個人に価値を置き、自由選択が最高の権威であるとしてきた自由主義は、三つの方面から挑戦を受けている。まず、人間はロボットやアルゴリズムにその役割を置換されていく結果、経済的・軍事的有用性を失い、経済と政治の制度が大勢の個人にあまり関心を払わなくなる。続いて、外部アルゴリズムの進化により、経験する自己をもっともよく理解する存在が必ずしも物語る自己としての個人ではなくなる結果、無類の個人としての人間に経済・政治の制度は価値を置かなくなる。そして、技術がキャッチアップ(是正)ではなくアップグレードに力点を置くようになる結果、経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップブレードされた超人という新たなエリート層を構成し、残る階層は無用者階級を生み出す。
 このように科学革命以降、「社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段」として人類が用いてきた自由主義的人間至上主義が限界を迎えており、その結果、二つの宗教が台頭してきている。その一つがテクノ人間至上主義である。人間至上主義の伝統的な価値観の多くを維持しようと努めつつ、意識を持たない高性能のアルゴリズムに対して引けを取らないよう人間の身体と心をアップグレードしようという考え。この宗教は三つの課題がある。一つは、我々は自身の精神をよく分かっていないので(特に是正ではなくアップデート)、心のアップデートがもたらす帰結が読めないこと。また、無用者階級がダウングレードされる恐れがある。そして、人間至上主義と言いながらも自らの欲望も制御できてしまうため、最終的な拠り所がなくなってしまうこと。その結果、テクノ人間至上主義の先に、もう一つの新たな宗教であるデータ至上主義が現れてくる。
 データ至上主義は、生き物を生化学的アルゴリズムと考える生命科学と、電子工学的アルゴリズムの設計を進めてきたコンピューター科学を融合し、動物と機械の垣根を取り除く。この宗教は、「情報の流れ」に最高の価値を置き、生き物はアルゴリズムであり、生物はデータ処理であるという点で機械と生物を区別しない。政治や経済の仕組みもデータ処理の仕組みとして理解され、よりよくデータ処理できる仕組みが結果的に生き残ってきた。さらに言うと、認知革命、農業革命、科学革命を経てきた人類の歴史もデータ処理の高度化の歴史ととらえることができる。これまでホモサピエンスという集団と個体はデータ処理という観点でもっとも高性能のアルゴリズムであったが、もはやこの考え方は時代遅れであり、データフローを最大化し、すべてをデータフローのシステムに繋ぎ、外部アルゴリズムにすべてを委ねるべきである、と考える。この考え方は強力で、現実の世界は、意識的、無意識的にこの考え方に沿って動き始めている。この延長線上で、人間は、構築者からデータ処理のチップへ、そしてデータへと落ちぶれ、最終的にはそのデータの価値自体も小さくなっていく可能性がある(人間至上主義の考え方によれば、プライバシーは最重要な価値となるが、データ至上主義の考え方に基づくと、データを拠出しない人は、外部アルゴリズムにフリーライドするアンフェアな人となるだろう)。
 
長期的な時間軸でみた人類が向き合うべき課題
 人類が直面している課題は、色々ある。年単位で解決すべき課題としては中東の紛争や欧州の難民問題、数十年単位で考えるのであれば、地球温暖化や格差社会など。一方、生命という壮大な視点では、大きな変化が起きている。生き物はアルゴリズムであり、生物はデータ処理であるという一つの協議に科学が収れんしつつあり、知能は意識から分離、意識を持たない高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身をしるよりもよく私たちを知るようになる可能性がある。ここで人類が考えなければいけない三つの問いがある。
  1. 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
  2. 知能と意識のどちらほうが価値があるのか?
  3. 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
前著に続き、色々な刺激を受けた良書でした。