松岡正剛氏の連塾・方法日本の第Ⅱ弾で、第四講から第六講の三回分が収められています。第四講は、松岡氏が考案した「インタースコア」という概念を巡る講和、第五講は日本美術史を題材に白紙や余白から読み取れる方法日本を語ります。そして、第六講では、方法日本としての「負」という考え方を紹介しつつ、現代日本が抱える問題についても少しずつ触れ始めるという構成になっています。

 

 

1.「文」は記憶する(第四講)

私たちが「日本(の面影)」を捉える際のキーワードとして「インタースコア」という氏発案の考え方を紹介します。このスコアを「記譜」と読んでください。ピアノを弾くときに使う記譜ですね。日本を奏でる記譜にはいろいろな種類があり、それは言葉であったり、音楽であったり、芸能であったり、建築であったりします。これらそれぞれが日本を奏でるスコア(記譜)となります。このそれぞれの記譜(スコア)は相互に関係しあっていて、相互に関係しあう記譜(スコア)の中から「日本(の面影)」を浮かび上がらせることができるだろう、と言います。一節を引用します。

私たちには歴史的身体というものがあり、その身体はかつても今も互換を持って何かをスコアしてきました。聖徳太子や柿本人麻呂の古代も、運慶や定家の忠誠も、信長や等伯や利休の近世も、その五感や感覚をつかってそのプロフィールを表現していたわけです。

その五感や感覚は何かの方法に転嫁されてきました。そして、言葉や音楽や芸能や建築となって、今日にまで続いています。ですから、そうした時代に潜んでいる数々のスコアには、過去と現在をつなぐすこぶる歴史的な日本でありもあり、これからの日本でもあるだろうと思うんですね。

詳細は割愛しますが、第四講は、主題のインタースコア以外にも、「デュアルスタンダード」、「コードとモード」、「ルールとロールとツール」、「ディマケーション(分界)」といった重要なコンセプトが紹介され、また、砂漠型宗教と森林型宗教の対比、新たなコードを創出し続けるマンガ、情報化から編集化へ、音読と黙読、500年で半減した世界の言語、ベンヤミンのパッサージュ論(20世紀の個人の夢と19世紀が夢見た集団の夢)などなど、いろいろな気づきをもたらしてくれる話題が満載でした。

 

2.日本美術の秘密(第五講)

第五講では、前半に「時間のプログラム」について同氏発案の「次第段取一切」を紹介し、その後、本題の余白の美、引き算の美へと展開します。この講話は、正直、なかなか私の理解が及ばず、まだ内容が血肉になっていません。ので、一節を引用するにとどめたいと思います。

こういうふうに雪舟によって、中国的山水は日本の山水に変換していったわけです。私が『山水思想』で書いたことは、そこには日本的な省略が起こっているということ、「引き算の美」というものが生まれつつあったということです。

なぜ省略や引き算ができたのか。ひとつには、中世の日本に「無常」の観念がはびこったことです。もうひとつは、そもそも日本にはウツツとウツを出入りするウツロイに対する感覚があって、そのウツロイのプロセスはどのようにも縮ませたり、引き伸ばしたりできたということですね。なぜ、そんな伸び縮みの表現ができるようになったかといえば、これはおそらく三十一文字ですべてを表現する和歌による訓練がゆきとどいていたからです。そして、そのことを視覚的に表現するにあたって、墨と白紙と筆と水とだけによる水墨画がぴったりだったということです。

じつは、こうした省略や引き算は雪舟だけでなく、除雪にも相阿弥にも狩野派にも起こっているんです。そういう表現の傾向は、応仁の乱をはさんで日本に少しずつ広まっていった。これが枯山水の試みとか、能の省略法とか、村田珠光の侘茶の発見にも及んでいたんですね。

この講には、アジアとしての日本、文化としての東洋、東洋民主主義といった、心に少しひっかかる言葉も出てきました。字がずらずらと並んでいるのも寂しいので、本著で取り上げられていた長谷川等伯の松林図屏風を差し込んでみました。

 

 

3.負を巡る文化(第6講)

第6講は、松岡氏から近現代の日本が抱えている矛盾にきちんと目を向けるべきという問題提起から始まります。少し長くなりますが、とても大切な指摘だなと思ったので、引用します。

私は、近現代日本の下敷きにはそうとうの“食い違い構造”があることを、あらためて考えるべきだと思います。そこはまだ残念ながら『夜明け前』のままなんです。それを現代史の一番近くにもってきても、敗戦自体と五十五年体制事態にまったくメスが入っていないことを認識すべきでしょう。

つまり、日本が近現代の歩みの中でさまざまな矛盾を歪んだままもってしてしまったことを、そのことをもっとちゃんと認識した方がいいと思うんです。それをしておかないと、ひとつには今後の政策が狂います。イラクを民主化するためにブッシュの軍隊に加担するかどうかに、いつまでも迷うことになる。もうひとつには、日本が誇りうるものを売れ行きのいい市場主義の視点でしか見られなくなる。かつての半導体でやったような、追いつけ追い越せのような繰り返しになりかねません。そして韓国やシンガポールや中国に追い抜かされるという羽目になる。いつまでもそういった懸念がぬぐいきれません。

そこで、そうしたことにメスを入れたうえで鋭く見つめるべきは、やっぱり「方法」です。「日本という方法」です。

主題なんて、必ず民主主義と市場主義に包摂されるにきまってます。それよりも、欄間と三味線とカラオケとアニメに共通する「方法の魂」に気が付くべきです。いったんそこに切り込んだ方がいい。

そして、松岡氏は、炎太鼓、一世風靡セピア、忌野清志郎、岡本太郎、松本清張を取り上げ、そこから「方法の魂」のヒントを紹介し、さらに、第6講の本題である「わび・さび」へと話を進めます。写真館の十文字氏との対談形式で侘び、寂びが語られます。・・・が、正直、文字が頭の中を通過していくだけで、なかなか腹に入りません。この辺りは、もう少し日々、五感を使って理解に努めないと自分の血肉にならないなと思いました。今のところは、欠けているもの、足りないものがあってこそ、そこから豊かな広がりがある実態を感じることができる、くらいの理解をしてみようと思います。

 

一方、ウォルフレンの権力決定プロセスの分析に対する松岡氏の意見は、仕事柄、少し耳が痛いところでありました。

さあ、こうなってくると、日本を議論するのは、日本的な概念や日本的なストリームをもっとちゃんと見直していかなければならないだろうということになります。少なくとも、欧米型近代国家のイデオロギーやロジックを当初から使って分析するわけにはいかないということになります。

また、今後の日本を考えるにあたり、とても重要なフレーズがいくつも登場しました。

  • つねに境い目に生まれる自発性、あるいは自発的経済圏というものを、日本は大事にしなければいけないんではないか。そのため、そこでは「結」とか「講」とか「座」とか「連」とか「組」といった境界的で、かつ境界をまたぐ日本の伝統的な組織のありようを説いて、これからの日本にもそういうものの新たな再生や組み換えがあってもいいんじゃないか。
  • 雨情はこんな風に書いています。「ほんとうの日本国民をつくりまするには、どうしても日本国民の魂、日本の国の土の匂ひに立脚した郷土童謡の力によらねばなりません」というふうに。ナショナリズムではなくて、土着的なパトリオティズムを訴えているんですね。
  • 神に同一化しなければいけないような一神教的な世界から派生した哲学よりも、茎には異質と触れ合って、たえず境い目をうろつく日本の行動感覚のほうが大事なように思えたんですね。

なかなか理解が追いつきませんが、知識として頭の中で整理しつつ、日々の五感や感情と重ね合わせて理解していきたいと思っています。