「故 五百旗頭眞先生を偲ぶ会」が(公財) ひょうご震災記念21世紀研究機構や兵庫県などの主催で行われました。会場は神戸市灘区六甲台町にある神戸大学六甲台第一キャンパスの「出光佐三記念六甲台講堂」。初めて神戸大学のキャンパス内に入りました。

関西テレビ


「故 五百旗頭真先生を偲ぶ会」次第
《第一部》
 1 開式
 2 開式のことば(司会) 
 3 黙祷 
 4 スライド上映① 「私の履歴書より」 
 5 追悼のことば① 蛭田武氏 (地域代表) 
 6 追悼のことば② 簔原俊洋神戸大学教授 (研究者代表)
 7 スライド上映② 「追悼」 
 8 追悼のことば③ 河田惠昭センター長 (発起人代表)
 9 献奏 
 10 遺族代表挨拶 五百旗頭薫東京大学教授 
 11 献花(御遺族・発起人) 
 12 招待者献花 
 13 閉会

発起人献花


私も献花させて頂きました。献花したあと会場から退席する流れでした。


第一部終了後に齋藤知事の囲み取材が行われました。

かなり多くのメディア。県広報課から「きょうは五百籏頭先生の偲ぶ会ですので、偲ぶ会についてのものだけでお願いします」という任意での要請があったようだが、まさかそうはいくまい。

記者:告発文書の中にも五百籏頭先生の名があった。改めてこの会に参加された後の、文書の記載に関しての受け止めを

知事:本日は五百籏頭先生を偲ばしていただく会ですので、文書についてのコメントは差し控えたいと思います。改めて先生のご生前の兵庫県へのお力添え、そしてさまざまなご協力に感謝申し上げるととともにご冥福をお祈りしたいと思います。

記者:最後に会ったのは?
知事:お会いした時期がいつか正確には覚えていないですけども、知事室でお会いさしていただいて、その時にお話しさしていただいたのが、2025年、阪神淡路大震災から30年という節目になりますので、そこで県としてもいろいろな行事とか発信をさせていただきたいので、是非先生からのご指導をいただきたいということをお伝え申し上げまして、先生からも、是非頑張ろうということで 」


渡瀬さんの文書に記載されている、2人の突然の副理事長解任とは真逆のような話をしている。ならば、なぜ震災30年の節目の前年に2人を解任しようとしたのか。

関係者に聞くと齋藤知事が偲ぶ会の発起人として挨拶をする予定は当初からなかったとのこと。ご遺族もおられた関係者控室には5分程度だけ滞在したそうだ。そこでの様子も聞いたがここでは控える。


偲ぶ会では特に、五百旗頭先生のご子息の遺族代表挨拶を私は固唾をのんで聞いた。

「(前略)父があまりにも急に亡くなったので、皆様と同様、私たちも父の苦しむ姿を目にすることはなく、今でも目を閉じれは元気で愉快な姿が瞼に浮かびます。だから父を諦めることができません。苦しんでおります。
そして、私たちは、父を失った喪失感だけではなく、あるいは悲しみだけではなく、表現しがたい不安にも苦しみました。
今日に至るまでたくさんの方に私たち家族は支えていただきました。そして、その方々の中にもただ悲しんでくださるだけではなく、何かの不安を感じている方がいらっしゃる。その不安の所在というのを今日まで考えてまいりました(後略、五百旗頭先生の研究分野の話につながる)」

現場で聞いていた私ですが、自分一人では「不安」が何を意味しているのかわからず、同じ話を聞いていた何人かの人に考えを聞きました。一般的な偲ぶ会の遺族のご挨拶ではなかったような気がしました。ご遺族や関係者が感じていた「不安」とはなんなのでしょう。私にはやはりわかりませんでした。

このあと先生の遺品が展示されているコーナーを訪問するとともに、お好きだった野球の道具なども拝見しました。





文化功労者顕彰

防衛大学学長時代

先生が野球をされていたというのは初めて聞きました。

先生の野球道具


倒れて亡くなった3月6日の直筆メモまで…


五百旗頭家のルーツは姫路だと先生は姫路の講演で言われていました。
五百旗頭先生のご冥福をお祈りいたします。合掌。

会場の神戸大学六甲台第一キャンパスから神戸港を望む。

このあと、一般参列者記帳・献花(自由献花)の第二部が行われました。

子守康範チャンネル
神戸新聞