母の葬儀。なぜこんなにつらいのでしょう。父母に育てられましたが、子どもたちのしつけは総じて母の役割でした。食べる物のこと、寝る時間のこと、テレビをみる時間のこと、小さな頃は厳格な感じでした。いまになって全て私たちのことを思ってのことだとわかります。また、兄妹3人を分け隔てなく同じように育ててくれたと思っています。勉強しろとは言いませんでしたが、日本の歴史の本を読んでいた私に次は「三国志」はどうかと勧めてくれたり、かなり早い段階でパソコンを使う環境を構築してくれたりしました。東京の大学にいくときは家計の経済的負担が重かったと思いますが、奨学金とあわせて4年間きちんと支えてくれました。さらに親に負担をかける政治家という職業を選択した際、選挙に出ると言いに帰ってきた時もやめてほしいとか反対はなく受け入れてくれました。実際にも父と手分けして慣れない選挙運動で迷惑をかけました。何も言わず、その後ずっと支えてくれたのです。
私も50歳です。この年になっても「身体を大事にしろ」「偉そうに言うな」。母だからこそ言えるその母がいなくなります。私はこのことをずっと嫌だと思っていました。母のほうが健康だから親不孝ではあるけども私のほうが先にいくのではないかなどとも思っていました。母の死を考えたくなかったのだと思います。それが昨年末、我慢をしていたのか、まさか病気だと思わなかったのか、突然、母に大きな病気が見つかりました。それから少しずつ悪くなっていきます。
そして10月11日の朝一番に母に呼ばれました。「伝えたいことがある」。死期を悟ったのだと思います。しかし、その後に母は忘れてしまって、やっぱりこなくていい。念の為に実家に行きましたが、やはり覚えてなくて、私が去るときに、「ボケてきたら迷惑かけるかもしれない、間違って電話するかもしれない」と言いました。「俺はあなたの息子やろ。間違ってもいいから電話してきたらいい」と言いました。これを聞いて大いに涙しながら実家をあとにしたとき、私も母とのお別れが近いと感じざるをえませんでした。
12日には地元砥堀の秋祭りの屋台巡行には家の前に歩いて出て少し立った姿勢でご近所さんとお話をすることもできました。翌13日の豊富のお祭りには伯母の家に行けました。14日の朝には「海がみたい」と言いました。「コスモスがみたい」とも言っていましたので御津の「道の駅」に連れていきました。これが最後の遠出になりました。その後、さらに状況は悪くなっていき、連日兄妹や孫たちも集まり母を囲みました。23日、母が息を引き取ったとき、議会本会議に出席していた私以外は母を看取ることができました。ほとんど苦しい様子を見せずに母は旅立ちました。
なぜこんなにつらいのでしょう。いろいろ考えました。これまでの人生で一番で飛び抜けてお世話になったのが母なのですね。だからこれまでのお別れで一番寂しい。涙が止まりません。
いよいよ出棺です。喪主として霊柩車の助手席に座り、名古山の焼き場へ行きました。骨上げしたあと、お寺さんで初七日法要をして頂きました。
最後に親族と実家へ戻りました。母のいなくなった実家です。51年間ずっといた母がそこにいにいません。父が亡くなってから12年。母も亡くしました。これほどつらくて寂しいことはありません。母とのお別れ。本当に長い間お世話になりました。ただただ感謝しかありません。心から育ててくれてありがとうと言いたいです。どうか安らかに眠ってください。英明